クライマックスの撮影を迎える前に、河崎は百恵に聞いてみた。
「あなたは、愛のために死ねますか?」
百恵は5分ほど沈黙し、そして神妙な表情で答えた。
「それは‥‥とても難しいことだと思います」
物事に対して浮ついた考えをしない百恵らしい返答だった。ところが、この投げかけがしばらく経って河崎の耳に戻ってくる。
場所は東京・帝国劇場、撮影から約1年後の79年10月1日に開かれた百恵初のリサイタルでのことだった。招待を受けた河崎は、誰にともなく告げる百恵の言葉を客席で聞いた。
「‥‥愛のために死ねる相手が見つかりました」
河崎は「あっ!」と思った。あの日の答えを、今、この場で出しているのかと。まだ友和の名は出していないが、これが事実上の恋人宣言であり、その1年後の結婚・引退へと向かっていく。
「言われてみれば『炎の舞』の撮影の後半から、2人の動きが“恋仲”として違うように感じられた。彼女が真冬の凍るような川に入ることもあったし、2ページもの長い情念的なセリフに手こずった場面もあったけど、厳しいスケジュールも“支え”があって頑張れたんだと思います」
正月映画として公開されると、河崎のもとには百恵から丁寧な毛筆で書かれた年賀状が届いた。そこには、あと数日でハタチを迎える百恵らしい感謝が込められていた。
〈10代最後の映画を撮っていただいてありがとうございました〉
今も河崎の宝物として大切に保存してある。
そんな河崎と、同期で東宝に入り、同じように「淳子・百恵映画」の両方を撮ったのが小谷承つぐ靖のぶである。前述の友和主演の「残照」と同時公開だった「愛の嵐の中で」が淳子と出会った最初の一篇だ。
「淳子ちゃんのそれまでの映画は原作がついていた。会社から78年のGW映画でという注文を受け、彼女の明るさやコケティッシュな魅力を出せるオリジナルの企画にしようということになったんです」
淳子演じる黛夏子は、姉・雪子の自殺を不審に思い、姉と関わりのあった男たちを訪ねて歩く。篠田三郎、地井武男、田中邦衛、岸田森、中村敦夫といった役者たちが並び、これまでにないタッチの作風でもあった。
「ベテランの男優陣を相手にすることで、彼女のいろんな面が出てくるんじゃないかというのが狙い。20歳になったばかりの撮影だったけど、歌には頼らず、女優としての魅力を開花させたかった」
小谷の記憶によれば淳子の取り組みはまじめそのものであり、やや硬さが目立ったように感じた。それでも映画そのものは凝った作りになり、まずまずの興行成績を出せたのだが──、
「今でもファンの人たちからDVD化や上映会のリクエストをいただくんです。ただ残念なことに、彼女の宗教問題がストップをかけて、なかなか実現しませんね」
小谷は翌年、百恵・友和のコンビ10作目となる「ホワイト・ラブ」(79年、東宝)の撮影に取り組んだ。