そもそも、稀勢の里と田子ノ浦親方の関係がこじれたのは、11年11月、先代の鳴戸親方(元横綱・隆の里)の急死がキッカケだった。ベテラン記者が振り返る。
「当初、誰もが稀勢の里が付き人を務めていた兄弟子の元関脇・若の里(現・西岩親方)が継承すると思われていましたが、現役にこだわったことで、実務を握っていた女将が隆の鶴(現・田子ノ浦親方)を指名した。最初こそ『イヤだ、イヤだ!』と逃げていたものの、結局は受諾。隆の鶴はタニマチを呼び込む才に長けていたからね」
しかし、当時は故・北の湖理事長の主導の下で相撲協会が公益法人へと移行するタイミングでもあった。協会による年寄名跡の一括管理が始まり、隆の鶴も年寄株の証書を提出することになる。ところが‥‥。
「鳴戸の証書の所有者が女将で、交渉が難航し、隆の鶴は田子ノ浦の年寄株を購入し、女将と決別。当然、稀勢の里ら力士も田子ノ浦部屋の所属となった。同時に部屋の引き締まった雰囲気は一変した。幕内在位の短かった田子ノ浦親方が、猛稽古で知られる鳴戸親方のように厳しく指導できるはずはなく、そればかりか、AV女優との友好ぶりをひけらかしたり、風俗専門誌が稽古場に置かれる日常に稀勢の里の心は離れるばかりだった。近年は会話すらしていないともっぱらでした」(ベテラン記者)
故・鳴戸親方といえば、現役時代から超ガチンコ親方として知られていた。その遺伝子を引き継いだ稀勢の里は、角界屈指の練習の虫として、努力の末に横綱の地位にまで上り詰めたのだ。
「田子ノ浦親方もその洗礼を浴びていたものの、稀勢の里が敬愛する西岩親方と比べれば、練習量も質も比べものにならなかった。『ケガは土俵で治す』が鳴戸親方の方針だったので、西岩親方なんて、靱帯を損傷してもテーピングをして土俵に上がったことも。同じ兄弟子でも、田子ノ浦親方の現役時代のちゃらんぽらんな一面を知る稀勢の里がバカにするのもしかたないことだった」(後援会関係者)
稀勢の里が猛稽古を積む若手に率先して胸を出す姿は有名だ。
「横綱が信奉するガチ相撲の継承者の一人、阿武松親方(元関脇・益荒雄)の下で将来を嘱望される阿武咲(現・前頭6枚目)が16年に幕下に陥落した時、わざわざ出稽古に行き、アドバイスを送っていた。幕下に稽古をつけるなんて異例なこと。逆に言えば、稽古から逃げるやつが嫌いで信用しなかった」(ベテラン記者)
とかく稽古嫌いだった田子ノ浦親方の指導力不足は悲願の綱獲りにも影響を及ぼした。
「有名な逸話ですが、ちょうど6年前の初場所の4日目、NHKの正面解説をしていた舞の海秀平氏が『日馬富士と稀勢の里の差は師匠の差ですかね』と話していたが、まったくそのとおりだったわけです(苦笑)」(スポーツライター)
さらに、稀勢の里の心を凍りつかせる事態も発生した。
「西岩親方は15年9月に引退し、翌年5月に約400人の前で襲名披露の断髪式を行っているが、この時の祝儀の取り分でもめた。現在は一般的に親方と本人の折半で、親方の取り分を『テラを切る』という。昔は『親方に育てていただいた』という意味も込めて『テラ9割』なんてこともあったし、今でも7割、8割なんてケースもあるが、西岩親方はかつての鳴戸部屋の長男的な立場だけに折半でも多いぐらい。だが、止めばさみを入れたのは田子ノ浦親方であり、彼は慣例を盾に銭ゲバぶりを発揮したそうです。このご時世だけに、経費削減の部屋運営には従えても、この兄弟子への非礼とも映る対応ぶりに不快感を覚え、修復不可能なほどの関係になってしまった」(後援会関係者)
この部屋を巡るゴタゴタが稀勢の里の相撲人生に暗い影を落としていたのだ。