短命に終わった「横綱・稀勢の里」時代を振り返るうえで欠かせない出来事が、17年3月の春場所だ。悲願の横綱に昇進して初めて挑む場所は初日から白星を重ねていたが、13日目の横綱・日馬富士戦で、アスリートとして致命傷となる大ケガを負ってしまう。スポーツ紙相撲担当デスクが振り返る。
「当初は『左大胸筋損傷、左上腕二頭筋損傷で約1カ月の加療』との診断書が協会に出されたと報じられたが、その後の精密検査で、実は『左腕は筋断裂』していたことが、引退後になって明らかになった。引退会見でも、『ケガをする前の自分に戻すことはできなかった』と唇をかんだ」
結果的に、この時の大胸筋断裂のケガを押して強行出場を決断。涙の優勝を飾ったが、横綱の立場を思慮し5月の夏場所も土俵に上がった。結果は6勝5敗4休で、この時の判断を悔やむ角界関係者は多い。
「夏場所の強行出場の反動で、腰と左足首も痛めてしまった。八百長やパワハラ問題を抱えていた協会にしても、稀勢の里人気にすがっていて、本場所だけでなく、巡業でも頼った。その後、出場しては休場の繰り返しになるが、決断したのは横綱とはいえ、相撲界で助言を送れる人物がいなかった。そもそも、師匠と弟子がきちんと話をしていれば、こんな悲劇は起こらなかったでしょう」(後援会関係者)
親方との不仲が続き、協会側からは相撲人気回復の起爆剤と位置づけられる中、稀勢の里は孤立する。
「決断の基準は常に先代・鳴戸親方の教えとならざるをえない。今思えば、横綱寿命を削ることになる不完全な状態での強行出場にしても、ガチ横綱としてのプライドがあったと思います。モンゴル勢らの星の貸し借りをみずから阻止したかったのかも。ただ、若手の台頭も回復を遅らせた理由の一つ。金星は力士報奨金のアップにつながるので目の色を変えて挑んできますからね。『今の横綱なら左さえ封じればチャンス十分』なんて声も聞かれたものです」(ベテラン記者)
まさにガチンコ相撲で身を削った末の、満身創痍での引退だったのだ。