かつて大山康晴、中原誠、谷川浩司へと移った覇権は、長らく君臨するスター・羽生善治へと継承。そこに猛然と現れた刺客が、一回り以上も年が離れたもう一人の天才棋士・渡辺明だった。将棋界に生まれた新たなライバル関係は必然的に、数々の名勝負を生む。類いまれな2つの才能の源、そして激闘の現場を追った。
08年12月18日、山形県天童市内のホテルで行われた第21期竜王戦7番勝負の最終第7局2日目。羽生善治(42)が投了するや、終局を待ちかねていた報道陣は、なだれ込むように対局室へと入室してきた。
対戦相手の渡辺明(28)は連続5期、羽生は通算7期で、ともに「初代永世竜王」の資格がかかっていた。さらに羽生はこの1局を勝てば、7タイトル(他に名人、棋聖、王座、棋王、王将、王位)全てにおいて永世の資格を手にすることになっていた。実現すれば将棋史上初の快挙。何より、将棋ファンでなくともその名を知られる有名人だけに、社会的関心度も高かったのだ。
観戦記者が興奮した口調で回想する。
「勝負は二転三転、逆転に次ぐ逆転で、どちらが勝ってもおかしくない大熱戦となりました。日本将棋連盟が発行する『将棋世界』の、全棋士による08年の年間ベスト対局に選ばれたほどでしたね」
何しろ渡辺が3連敗のあとに4連勝するという劇的な展開で、竜王の座を防衛。将棋史に残る名局と言われることになったのである。
渡辺も自身のブログを書籍化した「明日対局。」で、
〈今後もここまで大きな対局はそうそうないだろうから、引退時に「印象に残る将棋は?」と聞かれたらこの将棋になる可能性が高い〉
と明かしているほどだ。
この竜王戦の初戦はパリで行われたが、熱狂的な競馬ファンとして知られる渡辺は、対局前日にサンクルー競馬場で馬券を買っている。日本でもおなじみのスミヨン騎手騎乗馬の単勝を買い、同行者と応援しているのだ。大勝負を前にしても動じないあたり、大物の風格が伝わってくる。
ところで、将棋界初の3連敗から4連勝の大逆転防衛は、渡辺にとってあとのない第4局に伏線があった。渡辺はその時の状況を、BSテレビでの極楽とんぼの加藤浩次との対談番組にゲスト出演した際に、次のように明かしている。
「もう(持ち時間が)秒読み中で、何かやんないと負けなんで、エイヤッと指した(126手目の)△8九飛がお互いの想像を超える一手で。羽生さんはまだ持ち時間が10分あって、それも全部使ってた。『何で負けなんだ?』みたいでしたが、逆転できる手はなかった。お互いの想像を超える手があったんですね」
他人事のように話す渡辺だが、「(私が)逆に3-0になったら、ほぼ勝ったと思う」とも言っている。将棋に指運は付き物とはいえ、勝利の女神が渡辺に味方した瞬間だった。