第101回大会を迎える今年の夏の甲子園。予選では、“令和の怪物”と呼ばれた大船渡(岩手)の最速163キロ右腕・佐々木朗希投手の動向に大注目が集まった。
残念ながら県予選決勝戦で登板を回避、チームも大敗してしまい、甲子園でその勇姿を見ることは叶わなくなったが、元祖・怪物といえば“昭和の怪物”と言われた江川卓(元・読売など)にほかならない。
江川が作新学院(栃木)のエースとして初めて甲子園に姿を現したのは1973年の第45回春の選抜である。この時はベスト4で惜しくも敗退したものの、江川の喫した失点は4試合でわずか2(自責点1)。そして奪った三振はなんとそれまでの1大会通算最多記録だった54奪三振を塗り替える60奪三振をマーク。まさに“敗れて強し!”の印象を残して甲子園を去っていったのだった。
その江川が同年夏の県予選を勝ち抜いてふたたび甲子園へ戻って来た。県予選での成績は5試合で被安打2、70奪三振、44回無失点。しかもノーヒットノーランを3試合も達成していた。そのため、この年の第55回選手権大会は、春に続いて江川がどんな記録を打ち立てるかが、当然のように最大の関心事となったのである。
その“怪物”江川が初戦で相対したのが柳川商(現・柳川=福岡)だった。柳川商は対・江川対策として“バスター打法”を編み出し、対抗。これは江川の速球に備えるため、投球動作とともにバントの構えをし、投球に合わせてバットを引いてタイミングを合わせてボールを叩くというもの。要はミート打法の正確さに活路を見いだしたのである。そしてこのバスター打法に江川は大苦戦を強いられることとなるのであった。
試合は5回を終えて両チーム無得点と投手戦の様相を呈していた。江川はここまで9三振を奪い、力で相手打線を圧倒。だが、4回表には無死から連打されピンチを迎えるなど、あわやの場面も許していたのだった。
そんな柳川商打線の狙いがついに功を奏する瞬間がやってくる。6回表、2死後から2番・古賀敏光が三塁強襲安打で出塁。続く3番・松藤洋が右中間をみごとに破る三塁打を放ち、なんと江川から先制点をもぎ取ったのだ。
逆に江川にとっては公式戦での無失点記録が53回でストップしてしまう痛恨の1点でもあった。これがどれほど一大事だったかは、試合を中継していたNHKのアナウンサーが「スコアボードの1点がひと際大きく見えます」と実況したことでわかろうというものだろう。
だが、作新も7回裏に相手のエラーに乗じて同点に追いつく。そしてそこからはチャンスの連続。9回裏、延長戦に突入した12回裏と1死満塁のサヨナラ機を作るが、柳川商のアンダースロー・松尾勝則の力投の前に後続が凡退し、なかなか江川を援護出来ない。14回裏には江川みずからが三塁打を放って一打サヨナラの場面を作ったのだが、ここで柳川ベンチは驚天動地の采配を見せる。なんとセンター・松藤が内野に回り、投手と三塁手の間に守る“内野5人シフト”を敷いたのだ。この奇策で作新サイドのスクイズを阻止。このまま大会規定の延長18回引き分け再試合が濃厚かと思われた。
しかし、幕切れはあっけなく訪れる。延長15回裏、作新は2死一、二塁のチャンスを作ると1番・和田幸一が中前へ安打。二塁ランナー野中重美がきわどいタイミングながらも本塁を狙うと、柳川商のキャッチャー・三宅文三男がボールをこぼし決勝点。こうして作新は2‐1で辛くもサヨナラ勝ちを収めたのである。
この試合,江川は15回を投げ、被安打7、与四死球3。そして奪三振はなんと23をマークした。このまま記録を作り続けていくかと思われたが、続く2回戦だった。2年生ながら好投手・土屋正勝(元・中日など)擁する銚子商(千葉)にまたも大苦戦。雨中の投手戦の末、延長12回、0‐1で押し出しのサヨナラ負けを喫してしまう。あまりにも短い最後の夏。“昭和の怪物”江川は涙雨とともに甲子園を去っていったのであった。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=