シブがき隊は歴代で6位となる22曲ものランクインを果たした。番組有数の“レギュラー”だっただけに、多くの場面に遭遇した。例えば、地元が近いことでシャネルズ(後にラッツ&スター)の面々には可愛がってもらったが、横浜銀蠅との「一触即発」を見た。
「シャネルズは歌い終えてソファーに座っていて、その後に銀蠅の翔さんがMCで大学の話をされていた。すると後ろから『へえ~、ツッパリなのに大学に行くんだ』って冷やかな声。シャネルズのほうが“本物”で、銀蠅の皆さんが歌いにくそうでしたね」
後に布川がつちやかおりと、薬丸が石川秀美と結婚した ように、82年組は「ファミリー」の一面がある。デビュー間もない頃は、実は3人そろって小泉今日子が大好きだったと言う。
ベストテンでも小泉が先に歌い、その後にシブがき隊の出番となると「バトル」が展開された。
「歌い終えた人がソファーのどこに座るか、自分たちで決めていいんですよ。僕ら3人は、誰かがキョンキョンの隣りの席に座りたい。だから自分たちの歌が終わると、マイクを音声さんに渡して猛ダッシュ。彼女のヒット曲の『学園天国』と同じで、あの席をただ1つ狙っていましたね」
決して恋仲に発展するわけではないが、ささいな会話が楽しみだったという。
やがて、少し遅れてチェッカーズや吉川晃司がデビューし、同じようにベストテンの常連となる。布川や本木雅弘は事務所の枠を超えて彼らと交流していたが、これを薬丸が許さなかった。ジャニーズのタレントは、他事務所の男性アイドルと親しくしないという“不文律”があったのだ。
「薬丸はマジメだから僕ら2人に説教するんです。お前ら、吉川やチェッカーズにどれだけ俺らのファンを持って行かれたと思っているんだって。その気持ちはわかるけど、でも六本木で彼らと楽しく遊んでいたから、つきあいは変わらなかったですね」
22曲がランクインした歴史において、最も印象的な場面を聞いた。布川はすかさず、4枚目のシングル「処女的衝撃!」(83年2月)だったと答える。まるでミラーボールのような回転式の照明が2つ、彼らの前に置かれていた。日本に何台もない最新の機材を用意してくれたことに素直に感謝した。だが──、
「モックンのマイクのコードが照明に絡まって、どんどん巻き取られる形になったんですよ。するとMC席から黒柳徹子さんが飛んできて、照明を逆回転させてコードを戻してくれた。ADよりも早い機転に、さすが黒柳さんと感心しましたね」
毎週のように順位を競う場であったが、そこは学校の延長のような楽しさがあった。デビューから32年が経つが、今なお「1度もバイトすることなく芸能界で生きてこられた」ことの原点だと語る。
〈文中敬称略〉