庄野が初めてランクインした78年は、歌謡曲とニューミュージック系の壁が取り払われた感がある。庄野のほかにも八神純子、渡辺真知子、サーカス、原田真二、世良公則&ツイスト、そしてサザンオールスターズが台頭。華麗なビジュアルも含め、テレビは積極的に使う「武器」となった。
さらに庄野は、音の面でも変革を起こす。
「サザンやツイストはバンドでしたけど、私はソロのボーカリストがバックバンドを番組に連れていった最初のケースなんです。ただ、緊張することのほうが多かったですよ。メンバーが時間を守ってスタジオに入るかとか、セットのどの位置に立たせようかとか、とにかくスタッフの皆さんに迷惑かけないようハラハラしていました」
テレビに出るようになって感じたのは、1つの番組に対し、あるいは1曲に対し、予算も労力もふんだんにかけていたということ。スタジオだけでなく、全国どこでも中継をすることで知られた「ベストテン」だが、ランキング番組だけに準備の時間は少ない。木曜のオンエアの翌日に次週のチャートを決め、出演交渉やセット作りに取りかかる。
「有名な『追っかけ中継』で、私が和歌山での仕事の直後に出る回があったんです。そこで用意されたのは、和歌山城の天守閣でした」
国の史跡に指定され、徳川御三家の流れをくむ由緒正しき名城である。ましてランキング決定から1週間も経たないスピードで、使用許可を取りつけた番組スタッフに庄野は驚いた。
天守閣を見上げるようにライトが飛び交い、オリエンタルなムードの楽曲と、日本の名城という異質な組み合わせがみごとに融合した。
やがて、心地よく歌い終えた庄野は、ただならぬ気配を感じる。
「テレビを観た近所の人たちがワッと和歌山城に押し寄せたんです。しかも皆さんが一斉に天守閣をめざし、降りようとする私たちが身動き取れなくなってしまって‥‥」
庄野はスタッフに両脇を抱えられ、待機していたパトカーに乗り込んで宿泊先へ向かった。番組が始まって半年が過ぎ、視聴率が30%を超えようかという勢いを肌で感じたという。
さらに庄野は「モンテカルロで乾杯」(78年7月)も連続でランクインし、しばらく置いた「Hey Lady優しくなれるかい」(80年2月)も続く。庄野にとって念願の“自身の作詞作曲”による大ヒットとなった。番組で歌ったのは80年4月10日だが、その2日後から約2年もの放浪の旅に出かけている。
「旅立つ前に自分の曲でヒットを出すという目標がかなったのはうれしかったですね。レコードが売れているのに日本を離れるのは少し残念ではありましたが、出発まで1年かけての計画でしたから、後悔はありませんでした」
同年の7月10日には、休暇でノルウェー・オスロを訪れていた黒柳徹子と合流し、衛星中継の形で「ベストテン」に元気な姿を伝えた。
同じ時代を同じ番組で過ごしたサーカスや渡辺真知子とは、今またジョイントする機会が多いという。