光が交差するステージに高らかなファンファーレ、そして久米宏と黒柳徹子が唱和する「ザ・ベストテン」の宣誓コール。78年1月にスタートしたその番組は、たちまち驚異的な視聴率を叩き出す。一貫した厳正なランキングと、地の果てまでも中継する姿勢は、放映開始から35周年の今も伝説のままだ──。
「山口百恵、松田聖子、中森明菜、そして小泉今日子。番組にとって、この4人が張り切ってくれたからこそ、こちらもすごく刺激された。歌手の人たちと直接の会話はしなかったけど『この美術はどうですか?』というのは、いつも胸のうちで語りかけていたよ」
TBSで長らく美術デザインを担当した三原康博は、番組のスタートから10年にわたって関わった「ザ・ベストテン」を振り返る。78年1月19日、木曜夜9時に始まった「ベストテン」は、従来の歌番組と大きく違っていた。これまでもランキング主体の番組はあったものの、厳正なデータをもとに上位10曲のみオンエアという試みは“危険な賭け”だった。
実際、記念すべき第1回には当代一の人気だった山口百恵が10位内に入らず(11位と12位の2曲)、出演させることができなかった。また4位に入った中島みゆきの「わかれうた」は、出演辞退という歌番組らしからぬ“舞台裏”の発表。期待された初回の視聴率も、前夜祭(21.4%)よりも低い16.8%に終わる。それでも、と三原は言う。
「それまでTBSはドラマ至上主義で、中には歌番組を『ザコ番組』と呼ぶヤツもいた。その点では『ベストテン』が初めて市民権を得た歌番組だったと思う」
スタジオに来られない歌手には、地方の公演先だけでなく、新幹線のホームや空港の滑走路にもカメラを出した。制作サイドの意図を含まないランキング(視聴者ハガキ、レコード売り上げ、有線リクエスト、ラジオリクエストの集計)も信頼を得た。
そして視聴率は急上昇し、常に30%以上を叩き出す「怪物番組」に君臨する。三原はランクインする曲を聴くと、すぐに美術のイメージをこしらえた。特に山口百恵は「プレイバックPart2」(78年5月)や「謝肉祭」(80年3月)が記憶に残る。いずれも阿木燿子と宇崎竜童の手による楽曲だった。
「作詞・作曲・編曲があって、最後に『作画』として美術を演出しているのが僕という自負はあったよ。たとえば『プレイバック』では床に四角いブロックをいくつも置いて、渋滞しているテールランプに結びつけた。あの歌詞を書いた阿木さんにも『僕の絵はどうですか?』と聞いてみたかったね」
番組は12年にわたり、次々と人気者を生みだしてきた。85年1月発売の「Romanticが止まらない」でブレイクし、計10作をランクインさせたC・C・Bもその1組。ドラムとボーカルを担当した笠〈りゅう〉浩二が嵐のような日々を語る。
「僕らがバンドでデビューして2曲とも売れず、これがダメなら解散しようという曲だったんです。ついでに、レコード会社の人にも僕らを印象づけるために、髪の色を5人それぞれに染めようと決めました」
シンセドラムを叩きながら歌う笠のハイトーンボイスは、もともとメインボーカルではなかった。ギターの関口誠人とベースの渡辺英樹が本来はメインなのだが、作曲者の筒美京平が笠の声質を買ってメインに抜擢した。
ドラマの主題歌になったこともあり、同曲は「ベストテン」でも1位に駆け上がった──。