映画「釣りバカ日誌」など、数々の名作に出演してきた俳優の三國連太郎が亡くなった。90歳の大往生だった。その61年に及ぶ役者人生には、いつも女性の存在とコンプレックスが同居していたのだ。
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三國は生前、インタビューで事あるごとに、みずからの“短小コンプレックス”を口にしていた。
芸能記者が言う。
「実物はそんな小さくもないのに、とにかく自分のイチモツが小さいと思い込んでいた。サウナにご一緒した時も、パンツを脱ぐ前に、下半身をがっちりガード。さらには、周囲を気にして人前で、タオルを取ることもなかった。かつて、西田敏行さんが映画のロケで一緒に風呂に入ったところ、パンツをはいたまま、大浴場に入ってきて驚いたこともあった」
そんな三國が、女性に対してのコンプレックスを抱くようになったのは、2度目の結婚がキッカケだったと、述懐していたという。
前出・記者が続ける。
「三國さんは、最初の結婚を満州で決めた。終戦で、『独身者より夫婦のほうが引き揚げ船に優先的に乗れる』と聞き、知人の女性と結婚。彼女の故郷の九州へ一緒に帰るが、義父母との仲がうまくいかず、身ごもっていた妻を置いて鳥取へ流れ着きます。そこで、工場勤めをしながら食堂で働く女性と2度目の結婚。しかし、彼女が同僚とセックスしている場面を目撃してしまう。『オレのチンチンが小さくて満足させられないため、彼女は浮気したんだ』という深いコンプレックスが、俳優になってからも付きまとっていました」
51年、木下恵介監督の「善魔」主役オーディションで選ばれてデビューした三國は、その時の役名「三國連太郎」を芸名として役者の道を全うした。
だが、その後も女性との浮いた話は数知れず。3回目の結婚は57年。当時の神楽坂一の売れっ子芸者と結ばれ、長男を授かる。だが、のちに佐藤浩市となる長男を置いたまま、当時19歳だった太地喜和子と不倫同棲。わずか3カ月余りの交際で破局するが、のちに三國は、「今までで、惹かれた女優さんは一人だけです。太地喜和子さんだけ」とインタビューに答えている。
芸能プロダクション関係者が言う。
「三國さんは、22歳年の離れた太地さんにのめり込むのが怖かったと話している。別の時には『女性がアエいでいるのを見ても演技にしか見えない』と女性に対する不信感が、まだこの頃までは拭えなかった。それゆえに、奔放な女性関係ながら安定した生活を恐れて、また放蕩の旅に出る生活を繰り返した」
だが、そんな三國の生活が一変するのは、4番目の妻・友子さんとの出会いだった。
芸能ジャーナリストの高尾太郎氏が語る。
「友子さんと三國さんとは共通の友人だった写真家の故・ケン影岡さん宅で知り合い意気投合。その後、三國さんが糖尿病で入院すると、友子さんは毎日のように病室を訪れ看病。三國さんは『まるで天使のように見えた』と語っている。結婚には友子さんの両親が大反対だったが、彼女は家を飛び出し、三國さんと同居。誰に対しても笑顔の友子さんは、義理の息子である佐藤浩市にも『浩市』と我が子のように呼び捨てし、佐藤の息子たちと自分の写った写真を『孫がこんなに大きくなったのよ』と周囲に見せてくれたりもした」
友子さんと暮らし、三國の性格も変わった。妻と連れ立って人前に出ることを極端に嫌っていたが、友子さんだけは例外だった。
「晩年の三國さんは『友子のために長生きしなくては』と、空気のいい沼津に別荘を購入。『富士山の霊水は体にいいから』と、月に一度は富士山の水をくみに行くほど、家族生活を大切にしていた」(前出・高尾氏)
所属事務所の社長も兼ねていた友子さん。三國も「僕以上にしっかりしているから、僕がいなくなっても大丈夫だよ」と最後は安心して旅立った。合掌。