その吉田内閣が最も本領を発揮したのは、都合第5次内閣までの7年2カ月の中で、第2次から第4次内閣の半ばまでの約4年間と言えた。
この間、吉田のなかには、国の命運がかかる講和条約を成立させる一方、対米関係を重視しながらも、折から米ソ冷戦時代に入ったことで日本を極東の防壁としたい米国の強い再軍備要求を抑え、まずは経済復興を優先させ、経済繁栄への基礎ができたところで徐々に米国の要求をのむというシタタカな考えがあった。
吉田は軍備がいかにカネを食うかを知っており、日本の急務は何より経済復興であり、持てる国の資金はそれにこそ投入しなければならないという考え方だった。ひとまず軍備は米国に任せ、日本はひたすら経済再建に向かうべきとする「安保タダ乗り」論の展開ということである。まさに「戦争で負けて、外交で勝った試しがある」といった言葉への“確信ある挑戦”ということでもあった。
結果、吉田は政治生命を賭けた形で、世論に強まる「全面講和」論を蹴り、決然として「単独講和」を押し通し、米・サンフランシスコでの講和条約に調印した。昭和26(1951)年9月8日である。
また、一方でその前年に勃発した朝鮮戦争があったことで、米国の日本への再軍備要求が強まってきたのだった。それまで吉田は米国が要求する再軍備そのものは拒否してきたが、警察予備隊、海上保安庁、保安隊の設置でお茶を濁してきていた。しかし、ここに至って「日米安保条約」にも調印、こちらを含めて翌27年4月28日、「サンフランシスコ講和条約」、「日米安保条約」の二つの条約が発効することになる。これをもって、日本は独立を回復した形となったのだった。
ちなみに、その後、米側の防衛力増強要請により防衛庁設置法・自衛隊法が成立、第5次吉田内閣の昭和29年6月に公布、今日の陸・海・空三軍の自衛隊が創設されることになる。
吉田は実は、政治生命を賭けた講和条約調印までの約1年、好物の葉巻を断っていた。調印という大仕事の直後、当時の米・アチソン国務長官から超高級葉巻一箱が宿舎に届けられ、吉田は大いに相そう好ごうを崩したとのエピソードがある。
しかしその後、いささか自信過剰、傲岸な振る舞いが目立つようになり、吉田政権には一気に「翳り」が生じることになるのだった。
■吉田茂の略歴
明治11(1878)年9月22日、東京生まれ。貿易商・吉田健三の養子となる。外相を歴任後、昭和21(1946)年5月内閣組織、総理就任時67歳。対日講和条約調印をはさんで、第5次内閣まで。昭和42(1967)年10月20日、心筋梗塞のため死去。享年89。
総理大臣歴:第45代1946年5月22日~1947年5月24日、第48~51代1948年10月15日~1954年12月10日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。