昭和20(1945)年8月17日、終戦への道筋をつけて退陣した鈴木貫太郎総理のあとは、占領軍を迎えるという未曽有の事態を円滑に進めるため、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)が就任した。日本初の皇族総理である。すでに、昭和天皇は「ポツダム宣言」を受諾することを国民に伝えたが、軍部の一部にはこの“降伏決定”に反発があった。これに対し、天皇につながる皇族であれば、こうした反発あるいは暴走を抑えられるとし、昭和天皇の強い要請により就任したということだった。
しかし、東久邇宮は戦後処理に尽力したものの、GHQ(連合国軍総司令部)から治安維持法の廃止や自由化・民主化の推進などを強く求められたことで、「今後は米英をより知る人が内閣を組織、連合国と密接な関係のもとに政治を行うのが適当」とし、内閣を総辞職したのだった。総理在任はわずか54日、歴代総理最短である。
その東久邇宮による「米英をよく知る人」として後継を委ねられたのが、戦前の日本外交で米英協調路線、国際協調主義を主張、「幣原外交」で知られた幣原喜重郎であった。
その幣原は戦前の加藤高明(第1次)、若槻礼次郎(第1次、第2次)、浜口雄幸の4内閣で通算5年半も外相を務めた。とくに第2次若槻内閣で勃発した満州事変では、軍部の意に反して「戦争の不拡大方針」を国連で表明、一方で中国に対しても「内政不干渉」という外交姿勢を示し、わが国に対する国際世論の反発を鎮めるべくの努力を惜しまなかったものだった。
そうした「幣原外交」の真髄は「外交の目標は、国際間の共存共栄にある。ために2×2は4であり、8になってはいけない」といった言葉に表れている。すなわち、慎重、手堅さ、それを支えた徹底した平和主義というバックボーンであった。のちに総理になった芦田均は、「幣原の外交官としての識見、力量は、陸奥宗光、小村寿太郎級」との高い評価を与えたのだった。
さて、戦前にすでに政界から身を引いていた幣原を総理候補に強く推したのは、じつは幣原が退陣したあとを受けて総理になる吉田茂であった。吉田は幣原が外相時代、部下として次官を務めた幣原共々の米英協調路線派で、GHQ最高司令官のマッカーサーに「幣原総理」の了解を求めにも行っている。
その時、マッカーサーはまず吉田に「彼は英語が話せるのか」と聞いたあと、女性参政権など民主化政策の実施を指令したうえで、「幣原総理」を了解したのだった。ちなみに、吉田は東久邇宮に引き続き、この幣原内閣でも外相に就任している。
政権に就いた幣原は時に73歳、政界から遠ざかっていた期間が長かったこともあり、「まだ生きていたのか」との声も出たのだった。しかし、幣原はマッカーサーの指令に基づき、その実現に努めた。女性参政権、労働組合結成の推奨、学校教育の自由化、秘密審問司法制度の撤廃、経済制度の民主化の「五大改革」を実施した一方、天皇の「人間宣言」の起草など、天皇制の護持にも力を注いだものだった。
■幣原喜重郎の略歴
明治5(1872)年8月11日、河内国(大阪府)生まれ。アメリカ・イギリス大使館参事官を経て、外務次官、ワシントン軍縮会議全権委員。外相歴任のあと、昭和20(1945)年10月内閣組織。総理就任時73歳。昭和26(1951)年3月10日、狭心症のため死去。享年78。
総理大臣歴:第44代1945年10月9日~1946年5月22日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。