都合7年2カ月の長期政権を誇った吉田茂総理大臣ではあったが、第4次内閣までの約4年間と、それ以後の退陣することになる第5次内閣までとの実績、リーダーシップの発揮いかんは、大きく異なることになる。
政権の前半では、太平洋戦争の敗戦で大きな曲がり角に立った「サンフランシスコ講和条約」、その後の日本の防衛に資する「日米安保条約」調印に政治生命を賭けた。そのリーダーシップは、また曲折のあった日本国憲法を公布、施行させるなどで、高い評価を残したとの見方が強い。
しかし、後半はいささかの自信過剰、時に傲岸な振る舞いといった吉田の“持ち味”がウラ目に出、政権は一気に「翳り」が生じたものだった。その経緯は、次のようなものであった。
吉田は第3次内閣で、パージ(公職追放)から政界復帰していたライバルの鳩山一郎の勢力拡大にクサビを打ち込むため、「抜き打ち解散」に打って出たが、これを機に支持率が急降下していくのだった。
第4次内閣の昭和28(1953)年2月には、吉田は衆院予算委員会で右派社会党の論客、西村栄一の質問を受けているさなか、アタマに血がのぼったか「生意気なことを言うな」「無礼者、バカヤロー‥‥」と口走ってしまったことで、野党3党共同で内閣不信任決議案を突きつけられるという“騒動”を起こした。
結果、吉田と決別、民主党を結成していた鳩山らも不信任決議案の賛成に回り、ここに日本政治史上初となる不信任決議案の可決をみた。しかし、強気の吉田は総辞職をせずに衆議院の解散に打って出、これは「バカヤロー解散」と言われたものだった。総選挙で吉田自由党は過半数を割り込んだが、案の定と言うべきか、ここでもなお強気の吉田は少数与党第5次内閣を発足させたのだった。
しかし、昭和29年に入ると「造船疑獄」が表面化、関与した自由党幹部の中に吉田の側近で時の自由党幹事長佐藤栄作がいたことで、政権は一気に崩壊への足音を高めることになった。この年4月、東京地検が佐藤の逮捕を決定、国会に対して逮捕の許諾権を請求した。しかし、吉田は時の犬養健(いぬかいたける)法相に命じて「指揮権」を発動させることで逮捕を拒否、これは検察に容喙(ようかい・差し出ぐち)をしたものとして、吉田内閣は世論のごうごうたる批判を招くことになったのである。
さしもの吉田の権勢も、ここまでであった。この年12月左右両派の社会党とともに鳩山率いる民主党も、ここで改めて内閣不信任決議案を提出した。吉田はなお「成立するなら(衆院の)解散で対抗する」と強気だったが、自由党内からも「吉田は終わった。解散するなら、吉田の党除名もやむを得ない」の声も出、ついには佐藤栄作から幹事長を引き継いでいたやはり吉田の側近の池田勇人の「解散ができる情勢にはありません。禍根を残してはなりません」との“涙の進言”もあり、ついに吉田は総辞職を決断、ようやく長期政権に幕を降ろしたのだった。
■吉田茂の略歴
明治11(1878)年9月22日、東京生まれ。貿易商・吉田健三の養子となる。外相を歴任後、昭和21(1946)年5月内閣組織、総理就任時67歳。対日講和条約調印をはさんで、第5次内閣まで。昭和42(1967)年10月20日、心筋梗塞のため死去。享年89。
総理大臣歴:第45代1946年5月22日~1947年5月24日、第48~51代1948年10月15日~1954年12月10日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。