芦田均内閣は、政権タライ回しのなかで誕生した。前任の片山哲が政策の行き詰まりで総辞職したのであれば、本来なら「憲政の常道」で、政権は比較第1党の吉田茂を総裁とする自由党に回るべきものであった。
しかし、芦田は前政権の片山同様、社会党、民主党、国民協同党の3党連立を踏襲、半ば強引に「中道連立内閣」を自称し、政権の座に就いてしまったのだった。首班指名選挙は衆院で芦田が制したが、参院は自由党の吉田が制して大混乱、憲法六七条の衆院優位の規定により、芦田はからくも総理のイスに座ったということだった。結果的には、吉田と争ったこの首班指名の混乱により3党連立政権が揺さぶられ続け、芦田内閣の短命を運命づける結果となったものである。政権はわずか7カ月余、220日で崩壊したのだった。
しかも、政権スタート2カ月後の昭和23(1948)年5月、「昭電疑獄」が表面化したことが、さらに政権の力をそいだ。これは戦後復興融資などにからむ贈収賄事件で、栗栖赳夫経済安定本部総務長官などを含め、政財官界などから逮捕者じつに64名が出たのだった。
なお、この時の逮捕者のなかに時の大蔵省主計局長・福田赳夫(のちに総理)もおり、芦田自身も内閣総理大臣であったが、融資を斡旋して謝礼を受けたとして逮捕、起訴されている。福田も芦田も最終的には無罪となったが、逮捕者64名中有罪はわずか2名にとどまり、「検察の勇み足」との声も出たのだった。
さて、芦田は、当初は国民の間では評価の高い政治家ではあった。「先見の明」がよく言われ、知性豊かにして手法はなかなかしたたか、演説は理路整然で、国会でも名演説とされるものをいくつか残している。立ち位置については、「反軍閥」「リベラル」というものだった。
しかし、芦田政権は前述のように連立政権の不安定さに加え、GHQ(連合国軍総司令部)の意向も入れざるを得ないという、ジレンマの中での苦闘を余儀なくされた。そうした中で、「先見の明」として見るべき政策としては、唯一、戦争で崩壊した経済の再建のための外貨導入を軸とした「経済安定十原則」を掲げた点が評価された。
一方、芦田の政治家としての気骨は、政権以前に見られた。それは、「憲法九条の条文は人権を認められた個人同様、日本の自衛権を否定したものではない。この権利は、自衛のための武力行使を禁じてはいない」(「毎日新聞」昭和26年1月17日付=要約)の一文に表れている。
すなわち、芦田は第一次吉田茂政権下で衆院の「帝国憲法改正案委員会」の委員長を務めていたが、芦田はGHQおよび吉田総理の意向を押し切った形で憲法第九条の内容を、戦争の完全放棄でなく侵略戦争の放棄にとどめたということであった。
芦田は独断で「九条」の原案を修正、自衛のための武力行使を排除したものでないことを強調した形にしたということである。これにて、日本の軍備はGHQによって手足を抑えられることなく、自衛のための軍備は保持することが可能となったということだった。今日、これは「芦田修正」という言葉として残っているのである。
■芦田均の略歴
明治20(1887)年11月15日、京都府生まれ。外務省入省。ジャパン・タイムズ社長。鳩山一郎らと日本自由党結成、脱党して民主党結成で総裁に。総理就任時60歳。総辞職後、東京拘置所に強制収容(のちに無罪)。昭和34(1959)年6月20日、耳下肉腫のため71歳で死去。
総理大臣歴:第47代1948年3月10日~1948年10月15日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。