関西屈指の色街、飛田新地。もともとは難波新地にあった遊郭街が1912年1月16日の大火で焼失。時の府知事が被災業者の救済や区画整理を目的として、現在の飛田新地を貸座敷の免許地として指定。1918年12月29日に、晴れて開業となった。
最盛期には234軒の貸座敷に2900人もの娼妓が在籍。そして今なお、およそ160軒が営業を続けており、外国人観光客も足を運ぶなど賑わいを見せている。
そんな飛田新地が色街として刻んだ100年の歴史。そして、これからの展望を収めた作品が、土井繁孝氏撮影によるフォト&ルポルタージュ集「百年の色街 飛田新地 遊郭の面影をたどる」(光村推古書院刊)だ。
遊郭街という性質上、撮影を含めた取材が困難なはずのこの地で、なぜこの本が出版されるに至ったのか。それは、開業より100年という節目を迎え、この色街の記録を残し、伝えたいという、飛田新地料理組合の強い願いだったのだそうだ。
かつては4~5メートルの壁で周囲を囲まれていた飛田新地。設けられた門では娼妓の出入りが厳しくチェックされていた。しかし現在、門のあった場所には門の名と、モニュメントなどの名残を残すのみとなっている。
現在も、飛田新地料理組合の事務所として使われている飛田会館。その建物は1937年に完成したもので、かつて広間では飛田で働く娼妓の検査が行われたという。現在も使われている応接室や大講堂と、使われなくなって朽ちた女子トイレのカットが、時空を超越したかのような不思議な気持ちにさせられる。
飛田会館の北側にある建物には、2017年5月にオープンさせた永信防災会館が。飛田新地料理組合が地域のためにと、災害など有事の際の飲食料や毛布、子供用の衣料やオムツ、ベビー服などを備蓄している。飛田の今、そしてこれからを見据えた、地域との共生を写したカットと言えよう。
もちろん、遊郭としての絢爛豪華、かつ妖艶な風情をとらえたカットも多数。現在も営業している「鯛よし 百番」は、文化財に指定されているほど高く評価されている料亭だ。その意匠を凝らし尽くした内装は、日光東照宮を模した「陽明門」、その奥には、目に眩しい金箔画の「日光の間」ほか、それぞれ異なるコンセプトながら“毒々しい”までに贅を表現。時を忘れて“夢のひと時”を耽溺するための演出であったのだろう。
まさに本書には、飛田新地の過去と現在、表と裏が生き生きと、あるいは生々しく写し出されているのだ。