PL学園高校時代はスラッガーの清原和博と〈KKコンビ〉と呼ばれ甲子園大会では5回連続出場、チームをけん引した桑田真澄(元読売ジャイアンツ)だが、PL学園野球部に入部して早々に野球断念を考えるほどの挫折を味わったという意外な過去を激白した。
PL学園で後輩にあたり、元プロ野球選手の片岡篤史のYouTubeチャンネル「片岡篤史チャンネル」、2月22日投稿の「PL学園復活についてとPL学園からスカウトが来た時の心境など、昔の話をたくさん聞いてみたよ~」でのことだ。
中学2年の時、すでにPL学園のスカウトの目に留まるエリートで、期待を背負いPL学園野球部に入部した桑田だが、なかなかチャンスに結果を残せず、5月には監督から「野手転向だ。もう無理だろ高校じゃ」と告げられ「目の前が真っ暗になった」という。野球をやめようと思い、6月には母親に「(寮から実家に)連れて帰ってくれ」と泣きついたというから今の桑田からは想像もつかない過去だ。
そんな桑田だが、試合では相手打者に外野フライすら打たせなかったという中学時代と今(高校生になって)と何が違うのかを分析してみた結果、良い球が投げられなくなった意外な原因に気づいたという。
「専属のコーチから『ピッチングの基本、常識を教えてやる。これを忠実に守ると良いピッチャーになれるぞ。肩は下げちゃいかん、肘も下げちゃいかん』って言われて、忠実に守ったよ」
ところがそれまで桑田は、基本とは正反対の、左足を上げたら右肩を大きく下げる投球フォームで結果を残してきた。つまり、コーチの言いつけを守ったことが、調子を悪くした原因だったというのだ。
野手転向後、教わったことをいっさい気にせず投げた外野からの目の覚めるような返球を見た清水一夫臨時コーチが桑田の投手としての素質を見抜き、投手に復帰。その年の夏には清水コーチが監督に直談判して、自身の進退をかけて桑田をマウンドに送ったというが、このエピソードの続きは、近日投稿される予定のようだ。
古くは、イチローの振り子打法を決して認めることのなかったオリックスの土井監督を思い出す。本来、選手を育てる立場の監督、コーチが有望な選手の個性を潰してしまうとは、本末転倒な話である。
(ユーチューブライター・所ひで)