その言うなら「外交のプロ」の幣原が、じつはやがて総理大臣となる田中角栄にとって、「政治の師」であったことはあまり知られていない。
田中は生涯にわたり、自ら「三人の先生がいる。他に先生はいない」と明言している。一人は「恩師」として、新潟の出身校の二田尋常高等小学校元校長の草間道之輔、もう一人が「事業の師」としての理化学研究所元所長の子爵・大河内政敏である。そして、「政治の師」が、この幣原ということだった。田中はこの三人のみを「先生」と呼び、例えば政治の世界で仕えた池田勇人、佐藤栄作は政治の世界の「先輩」であり、それなりの敬意は持っていたものの「先生」と呼ぶことはなかったのである。
二人の出会いは、幣原が総理の座を吉田茂に譲り、この吉田が新憲法下における初の総選挙を打ち、この選挙で田中が民主党から出馬、初当選を飾ったところにあった。昭和22年4月である。時に、政権は降りたものの幣原も民主党に所属していた。しかし、この時の選挙は社会党が比較第一党となり、吉田率いる自由党、幣原や田中の所属する民主党らの間で連立政権を巡って混乱した。
とくに、民主党内は吉田自由党との連携を重視した「保守政党」を標榜する幣原派と、社会党との連携に傾く芦田均派で主導権争いが勃発した。田中は、幣原派に所属していた。この争いは結局、芦田派が勝った形で、社会党、民主党、国民協同党の3党連立で、社会党の片山哲委員長が政権の座に就いたものだった。
この頃の幣原と田中との関係を、長く田中の秘書を務めた早坂茂三(のちに政治評論家)が、生前、筆者に次のように話してくれたものである。
「炯眼(けいがん)の田中は、1年生議員にして、これから政界の階段をのぼっていくには何が必要かを知った。事業に成功してカネはある、戦争で廃墟となった国内経済の立て直しについてのノウハウもある。足りないのは“世界観”だ。ために人格、識見に優れ、平和主義の“外交のプロ”幣原に付いて行く決断をした。幣原から学んだ世界観が、のちの日中国交正常化につながったと言ってもいいのではないか。
一方で田中は1年生議員ながら、民主党幣原派の台所も担っていた。カネも切れる、政治的資質も高いので、こうした田中を幣原もかわいがり、時の実力者の吉田茂へも“売り込み”に汗をかいてくれた。1年生の吉田内閣で法務政務次官になれたのも、田中は幣原が「吉田にネジを巻いてくれたからだろう」と言っていた。
田中をのちの実力者へのレールに乗せたのは、まさに幣原だった。「先生」とした田中の敬愛ぶりが知れるのである。
■幣原喜重郎の略歴
明治5(1872)年8月11日、河内国(大阪府)生まれ。アメリカ・イギリス大使館参事官を経て、外務次官、ワシントン軍縮会議全権委員。外相歴任のあと、昭和20(1945)年10月内閣組織。総理就任時73歳。昭和26(1951)年3月10日、狭心症のため死去。享年78。
総理大臣歴:第44代1945年10月9日~1946年5月22日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。