圧倒的スピード感を武器に、ブームの先兵となったのが「B&B」だ。文字どおり“がばい人気”だった全盛期を、島田洋七(70)が振り返る。
──何度か相方を変え、島田洋八とのコンビで「B&B」を結成。その人気が日本中に拡大したのが80年。
洋七 1月20日にやった「花王名人劇場」(フジテレビ系)の「激突!漫才新幹線」ね。夜9時のゴールデンタイムに、1組が10分以上の漫才を見せるちゅうのは、それまでなかった。西のやすきよに東のセントルイス、それに若手のB&Bが呼ばれて、これが関西で27.2%の視聴率になって。
──そして4月1日、さらに伝説となる「THE MANZAI」(フジ系)の第1回がオンエア。
洋七 プロデューサーの横澤彪さんと話してて、いろいろ言うたんよ。漢字の「漫才」じゃなく、英語の「MANZAI」にしたらとか、客席は笑い屋のおばちゃんじゃなく若い人ばかりにしたらとか、どうですかと。
──実際、その斬新なスタイルがウケて、回を増すごとに視聴率は急カーブ。第5回となる同年12月30日のオンエアは、32.6%を記録しています。
洋七 ツービートに紳竜、のりおよしおに、ぼんち、主力は6組くらいやったけど、むっちゃ個性的でおもろかったもん。その頃に男のアイドルが少なかったこともあって、漫才師がキャーキャー言われるようになったな。プロマイドが売れるとか、信じられへんかった。
──下世話に聞きますと、収入もケタ違いでしたか?
洋七 オレらは事務所が小さかったから配分をちゃんと決めてて、事務所と洋八が3割ずつ、オレはネタも書くから4割。当時は振り込みやないから現金をデパートの紙袋に入れてて、いちばん多い時は8000万円あったよ。
──1カ月でですか!
洋七 その月はCMが2本入ったからいうのもあったけど、営業も多かったしな。漫才はマイク1本あればどこでも、準備もいらんとやれる。そりゃあ全国からお声がかかるよ。
──さらにテレビ・ラジオのレギュラーですね。週に19本というのは、信じられない数字。
洋七 昼の「笑ってる場合ですよ!」(フジ系)のように、月~金の帯レギュラーが、昼と夕方と夜と3つ。さすがにどこにも行かれへんようになるから、夜のラジオは週2~3回にしてもろうたよ。
──ネタも自身で考えるから時間が足りないですね。
洋七 最初は本ネタに構成作家がいたけど、使えるとこは4分の1くらい。給料が5万円の時にネタ代を2万円も払って、それはアホらしいから自分たちで作ったよ。
──残念ながらブームは2年ほどで収束しました。
洋七 ブームを作ってたのって12組くらい。それでいて各局に番組はできるし、新ネタも追いつかない。飽きられるのもしかたなかったね。ただ、それまで「歌手」よりもうんと地位が低かった「漫才師」が、今ではテレビの司会なんかもほとんどやってる。それだけ向上させたって自負はあるよ。
──がばい歴史の立て役者です!