「コマネチっ!」「もみじまんじゅう」「おさむちゃんで~す」──今から40年前、1980年4月に始まった「MANZAIブーム」は、お笑い界の勢力図を大きく変えた。過激な毒舌で売った「ツービート」は、ビートたけしの奔放なネタを厳しく監視されたと相方のビートきよしが言う。
「収録前のリハーサルで『今のネタはダメ。それもダメ』とカットされ、以降、どの局でも僕らがネタ見せする時は、スタッフが必ずテープレコーダーを回すんです。『俺はここをカットと言ったからな、証拠もあるから。本番で違うことをやってクレームがついても俺は知らないよ』と。で、気がついたら相方のネタは半分になってた(笑)」
ブームの起爆剤となったのは、80年4月1日に第1回がオンエアされた「THE MANZAI」(フジテレビ系)である。初回から出演した「B&B」の島田洋七は、番組そのものにも大きく関与した。
「プロデューサーの横澤彪さんと話してて、いろいろ言うたんよ。漢字の『漫才』じゃなく英語の『MANZAI』にしたらとか、客席は笑い屋のおばちゃんじゃなく若い人ばかりにしたらとかどうですかと」
あまりに人気に、漫才師として初めて日本武道館で公演をしたのが「ザ・ぼんち」だ。ぼんちおさむは「営業のダブルブッキングは当たり前だった」と言う。
「山梨の甲府と静岡の御前崎がかぶった時は、先に甲府に行って、開演と同時の1時に出させてもらって。僕らがパパッとネタをやったら、今の大崎洋一会長に案内されて、行ったらグラウンドにヘリコプターがあって。そこから御前崎まで30分くらい。それからまた甲府にヘリで戻ってという強行軍でした」
若手の女流コンビながら、松田聖子に対しての強烈な毒舌がウリだった「春やすこ・けいこ」の春やすこは、こんな記憶がある。
「聖子ファンの暴走族風にカラまれるという『どっきり企画』があって。もちろん、仕込みなんですけど、それは十分にありうるじゃないですか。私ヴァーッと泣き出しましたよ」
3月31日発売の「週刊アサヒ芸能」4月9日号では、ブームの貴重なインタビューが満載である。子供からお年寄りまで笑えた黄金期の息吹がわかるはずだ。
(石田伸也)