1980年代の漫才ブーム。この時、レギュラー番組をテレビ週14本、ラジオ週5本も抱えていた島田洋七(63)は芸能界の頂点にいた。だが、それから4年で、屈辱の日々を送ることになる。
──19本あったレギュラー番組が、漫才ブームの終焉とともに次々と終了した。
「ブームが終わって週に1本になった。CMも9本やってたけど、キレイさっぱりなくなりましたね」
──金銭的には?
「ギャンブルをしたり、派手に遊んだりする性格ではないので、お金は何とかなった。ただ、精神的には相当追い詰められましたね。ヒマだから近所を散歩しようと外に出るでしょ。そうすると道行く人に『珍しい。今日はお休みなんですね。リフレッシュして、お仕事頑張ってください!』なんて優しい声をかけられる。しかも、当時は日本中に顔と名前が知れ渡っているから交通事故を起こしては大変だと、事務所が運転手付きの車を用意してくれていたんです。乗らないと運転手さんの仕事がなくなってしまうから、近所へ買い物に行くだけなのに運転手付き(笑)」
──よけいな見栄を張らなきゃいけない生活ですね。
「その後、(ビート)たけしさんに声をかけてもらって『北野ファンクラブ』や『平成教育委員会』に出してもらって、2年ぐらい忙しくなりました。でも、頼りっきりなのもダメだなと思って。『自分で売れる方法を考えるわ』と、たけしさんに言って、番組を全部降りて、元のヒマな生活に戻った。そして、群馬県の伊香保温泉に長い間泊まり込んで、今後のことを考えていたら、旅館の方が、考え事をしている姿を見て心配になったのか、部屋の様子をちょくちょく見に来るようになったんです。
そこで、仲居さんや調理場のスタッフを部屋に呼んで、おもしろい話を毎晩していたら、ある日、料理人の人が『洋七さん、広島出身ですよね』と聞いてきたから、広島の話や佐賀のばあちゃんの話をしたら、これがウケた。それで東京に戻って、たけしさんにばあちゃんのエピソードを話したら『本にして出せ』と。それで自費出版することになったのが、『佐賀のがばいばあちゃん』です」
──そこから人生がまた一気に逆転したんですね?
「とんでもない。最初は自費出版ですから、全然売れなかった。当時は講演会の仕事を始めた時期で、地方へ本を何冊も持って行って会場で販売したり、地元の本屋さんに頭を下げて置いてもらったりした。そんな活動で2万部を売ったら、出版社から本を出せることになった。本が出ても、これまでどおり、各地の書店回りを続けていたら、テレビ番組で取り上げられて、一気に売れたんです。そこまでザッと十数年かかってます」
──その間、島田さんを支えていたのは?
「人と人とのつながり。それと、くじけそうな時も、自分の才能を信じてとことんやる、という根性です。あと、ばあちゃんのおかげで、子共の頃から明るい性格だったので、前に進めたのでしょうね」