アイドルとして華やかにデビューし、今なお「紅白歌合戦」にも出場を重ねる松田聖子(58)。芸能史に例を見ないカリスマ歌姫はいかにして誕生したのか──。デビュー40周年を迎える節目に、誰もが存在を知りながら、誰も知らなかった「聖子の秘話」の数々を、貴重な証言をもとに特別公開する。
CBS・ソニーの若松宗雄ディレクターは、聖子の父親から電話をもらった。
「若松さん、もう一度こっちへ来てくれないか。娘がどうにもならないんだ」
何事か、と若松は思った。
「法子が『歌手になれないなら家出する』って言ってるんだよ。若松さん、こうなったら法子をあなたに預けますから」
松田聖子こと蒲池法子は、福岡県久留米の女子高生時代から歌手を夢見て、いくつものオーディションを受けていた。そのひとつである「ミスセブンティーンコンテスト1978」九州大会では優勝まで飾っているが、父親は「歌手など絶対に許さんとばい!」と聖子に手を上げたこともある。
その歌声を聴いた若松は、衝撃を受けた。
〈まるで夏の終わりの嵐が過ぎたあと、どこまでも突き抜けた晴れやかな青空を見た時のような衝撃だった〉
必死に説得を続けるが、父親は娘にも母親にも電話することを禁じたほどだった。それが「家出も辞さず」の信念に折れたのだ。
ただし、本人と若松がそのつもりでも「受け皿」はなかなか見つからなかったと若松は言う。
「ソニーの中では誰一人として賛同してくれなかったんだよ。せめてプロダクションのメドをつけたいと思って、できたばかりの尾木プロダクションの尾木徹社長や、サンミュージックの相澤秀禎社長にもお願いした。だけど、答えはノーだよ。俺としては面倒見のいいサンミュージックに絶対入れたいと思っていたから、相澤さんには何度も何度も頭を下げた」
実はソニーとサンミュージックは、80年2月に中山圭子(現・圭以子)という大型新人をデビューさせる予定であった。しかも、中山を獲得するために「向こう1年は新人をデビューさせない」という念書まで交わしていたのだ。
聖子は79年7月、高校3年の夏に上京してデビューを待つ。いつ歌手になれるのか不明だったが、思わぬ幸運が舞い込む。三顧の礼で迎えた中山にアクシデントが起きたのだ。中山自身が40年前のその日を振り返る。
「デビュー曲は輸入シャンプーのCMソングとして大々的に流れるはずだったのが、日本で禁止されている成分があったために販売中止になりました。ついこないだまで『圭子ちゃん、圭子ちゃん』と近くにいた人たちが、蜘蛛の子を散らすようにいなくなるんです。CMがなくなったことにより、レコード会社のプロモーターの方は責任を感じて出社拒否になってしまいました」
これが契機となり、早くても同年夏の予定だった聖子のデビューが4月1日に繰り上がる。ちなみに、最初に予定されていた芸名は「新田明子」だったが、聖子自身がこれを拒否したため「松田聖子」として世に出ることになった。
(石田伸也)