そんな浅丘と小林旭が出会ったのは58年。共演2作目の「絶唱」では「お互いの恋心が画面ににじみ出ていて演技をする必要がまったくなかった。会っているだけで楽しかった」と、浅丘がのちに語っているように、2人は一目会った瞬間から恋に落ちていた。
「恋は燃え上がり、ルリ子が22歳の時、彼女の父親のもとを訪れた旭が『お嬢さんをください』と申し入れたんです。ですが『やれません』と拒絶された。その一件一度で旭は諦めてしまい、疎遠から破局につながりました」
中平氏は2人の別離を長年残念無念に思い、01年、宍戸錠(享年86)の著作「シシド小説・日活撮影所」(新潮社)の出版記念会場で小林に会った際、「どうしてルリ子と結婚しなかったんですか!」と、詰め寄ったほどだ。
「旭は壇上での祝辞の際、『先ほど、こんなことを言われてしまいましたが』と苦笑いしていました」
浅丘と破局したあとの小林が美空ひばり(享年52)に見初められたことは、昭和を生きた人間なら誰もが知るところだ。
「運命のイタズラとも言えますよね。芸能情報誌の人気投票1位同士の対談の場で、旭とひばりは出会いましたが、男性1位は本来、撮影の休憩時間に試乗したゴーカートで事故死した赤木圭一郎(享年21)だったはず。旭自身も『彼が生きていたら日活もダメにならず、自分は早いとこ俳優に見切りをつけ、違うことをしていたかも』と示唆しています」
その対談でひばりに「恋人はいるの?」と聞かれ「いない」と答えた小林に対し、動いたのはひばりの周囲だった。
「プロデューサーでもあったひばりの母親の加藤喜美枝が、息のかかった芸能記者に熱愛を報じさせるという『仕組まれたスクープ』で既成事実を作られてしまった側面があります。ひばりも周囲に『私のダーリン』と紹介し、旭は彼女の後ろ盾の田岡一雄氏(山口組三代目組長)に『一緒になったれや!』とスゴまれたのです」
こうして62年に結婚(未入籍)したものの、わずか2年で離婚。その際もひばりサイドの意向で、田岡組長から「ファンにひばりを返してやれ、別れてやれや」と迫られ否も応もなし。
「破局直後に結婚当初にもあったバッシングが始まりかけ、旭は日本を脱出し身一つで海外へ飛び出し放浪しました。そんな破天荒さも彼の魅力の一つなんです」