今なお歌謡界のカリスマとして人々の記憶を強烈に揺さぶる昭和の大歌手、美空ひばり。6月24日の命日は今年、ちょうど25回目を数える。病魔に侵された彼女は「最後の800日」をいかにして過ごしたのか。「運命」を悟り、絶望の言葉を漏らした「病床秘話」を初公開する。
東京・目黒区の青葉台といえば、都内屈指の高級住宅街である。その一角に「昭和の歌姫」美空ひばりが自宅を構えたのは1973年のこと。174坪の敷地にそびえる鉄筋コンクリート3階建の邸宅は「ひばり御殿」と呼ばれるファンの聖地だが、今年5月から「東京目黒美空ひばり記念館」として一般公開されている。詰めかけるファンの応対にあたるのは、今も主なき御殿を住み込みで守り続ける3人の女性たちだ。
70代半ばの3人は20代の頃から付き人として寝食を共にしてきたが、今も毎日、生前と変わらぬ3食を、ひばりの仏壇に供えることが日課だという。
敗戦後の混乱と疲弊した空気が日本中を覆い尽くしていた時代に突然現れた、当時12歳の天才歌手はたちまち大衆の希望の星となり、昭和史に大きな足跡を残した。
そんなひばりを「青天の霹靂(へきれき)」が襲ったのは、57年。スター街道まっしぐらのひばりに嫉妬した東北の少女(当時19歳でひばりと同い年)に、東京・浅草の国際劇場で塩酸をかけられるという「事件」が起きた。その頬の傷痕は後々まで消えることはなかった。
5年後、ひばりはマイトガイ・小林旭と結婚するが、わずか1年半余りで離婚。歯車は狂い続け、この頃、実弟で作曲家のかとう哲也が賭博幇(ほう)助の容疑で逮捕されたのを機に、ひばりと山口組系組織との交遊が明らかになる。73年、NHK紅白歌合戦から締め出されたひばりは、世間のバッシングにさらされる。警察庁、警視庁の組織暴力取締りをまともに受けた結果だった。
さらに、仕組まれたような不幸が追い打ちをかける。81年、ひばりが「おじさん」と慕った山口組三代目・田岡一雄組長が、その1週間後にはマネジャー兼プロデューサーだった母・喜美枝が立て続けに亡くなったのだ。
いや、それではまだ終わらない。83年10月には、それまで幾度も逮捕されていた弟が42歳で急逝し、もう1人の弟、俳優の香山武彦も86年に鬼籍に入った。
若くして栄光をつかみ、芸能界に君臨していた女王は、親しい者たちとの別離の寂しさから、酒とタバコに深く傾斜するしかなかった。
人知れず孤独をかこつようになったひばりの飲酒量は年を経るごとに増え、ブランデーのヘネシーを一晩で1本半空けることも珍しくなくなる。衝撃的なニュースが全国を駆け巡ったのは、87年4月のことだった。
◆ノンフィクションライター・綾野まさる
◆アサヒ芸能6/24発売(7/3号)より