自殺という衝撃的な人生の幕引きを選択した天才歌手。その生涯を振り返ると、陰と陽を交互に行き来していたと言わざるをえない。しかし、日の当たる場所にいる時でも、日陰から“暴力社会”の住人たちが忍び寄り、彼女に常に付きまとい続けていたのだ。
99年は藤圭子にとって、久々に脚光を浴びた年であった。前年に、デビューした娘の宇多田ヒカルのファーストシングルがいきなりミリオンセラーを記録。希代のヒット歌手の母親として、ガゼン世間から注目を集めたのだ。
しかし、そんな最中にも藤の周囲では不穏な事件が起きていた。
「当時、突発的に宇多田が売れたことで、ある週刊誌が藤の現状の取材を開始したのです。そして、記事化して雑誌発売が目前に迫った段階で、印刷をストップさせた。結果的には発売日を1日遅らせてまで、問題の記事を差し替えることになった。理由は編集部にヤクザから圧力がかかったためです」(芸能記者)
書かれたくない事実を報じられる前に、所属事務所が編集部にクレームを入れるのはよく聞く話だ。しかし、“本職の人間”が登場するのは異例である。いったい、どんな内容の記事だったのか。ある出版関係者はこう打ち明ける。
「藤が地方の小学校の体育館でリサイタルを開いた。その模様を報じる予定だったのです。メガヒットを飛ばす娘とドサ回りをする母親という対比の構図は、格好のネタだった。実際に、会場となった体育館の客席は座布団を敷き詰めたような状況で、そうした中で歌う藤の姿までカメラに収めていたそうです」
ところが、リサイタル終了後に、会場に潜入していた記者が、帰路につく藤とバッタリ出くわしてしまったという。
「この記者は藤を取材した経験があって、面識もあった。藤が別の人間に手を振ったのが記者に手を振ったように見えたそうで、藤が好意的に受け止めていると勘違いしてしまった。記者が藤に歩み寄ったところで、週刊誌記者だと気づかれ、その場でリサイタル興行を仕切っていたヤクザに捕まってしまった。そのヤクザは広域指定組織の直系団体で、武闘派組長が率いていた。ヤクザ側も怒りが収まらず、記者だけでなく、対応に出た編集幹部まで1日間、軟禁状態となり、身体の安全が保証されない状態だったそうです」(前出・出版関係者)
これが、前述のように発売日を1日引き延ばす結果となったというのだ。
前出・芸能記者は言う。
「この当時は、藤の所属事務所はヒカルが実の娘であるということを大きく報じられるのを嫌がっていました。所属事務所といっても、社長は実父の照實氏で、所属タレントはヒカルと藤の2人だけです。ドサ回りのようなリサイタルも、ヒカルが売れる以前に決まっていたもので、キャンセルできなかった。まあ、帰国子女として英語を駆使するアーティストが演歌歌手から生まれたというのはイメージ戦略上、好ましくないのは理解できますが、ヤクザを使ってまでマスコミを脅すようなことだったのか」
芸能興行とヤクザの結び付きなど、いまさら説明は不要だろう。そして、99年当時、すでにヤクザと芸能界の関係はタブー視されていたことも言わずもがなだ。ヒカルがヒットを飛ばし始めた大事な時期に、ヤクザとのつきあいが露呈するなどもってのほかである。なのに、記者軟禁事件を起こしたのはなぜか。藤をよく知るベテラン芸能ジャーナリストはこう話すのだ。
「藤の両親は浪曲師として地方から地方へと旅巡業の生活をしながら、藤を育てた。藤は幼少期から興行ヤクザを間近に見て育ってきたのです。自分たちの生活の傍らにヤクザが存在することは不自然ではなかった。藤が歌手として隆盛の頃、彼女の興行を取りしきっていたのもヤクザでした。そういう時代だったのですが、通常は興行を開く地区のヤクザが取りしきるのを、藤の場合は主に4つの組織が取りしきっていました。いずれの組織もヤクザの世界では強大な力を持っていた。心強い後ろ盾だったのでしょう。確かに藤にはヤクザへの依存体質があった。しかし、記者を軟禁したヤクザはヒカルの興行に一枚かみたかったのではないでしょうか」
生涯にわたり、藤にはヤクザの影が付きまとっていた。
「藤は5歳の頃のヒカルを指して、『この子は天才なのよ』と言うほど溺愛していた。しかし、藤の奔放な私生活や周囲にいるヤクザのせいで、娘との距離が遠くなっていった」(芸能プロ関係者)
命を絶つと同時に、藤はみずからの“日陰の部分”も一緒に葬り去ってしまいたかったのだろうか。