昭和の芸能史において、藤圭子ほど衝撃をもたらしたデビューはなかった。人生の激流を投影させた《怨歌》の凄みは、死してなお多くの人の記憶に残る。
「西新宿で始めたんだ、俺たちは。最後の最後に圭子はこの街に戻ってきたんだな‥‥」
藤圭子がデビューした69年からマネジャーを務めた川岸咨鴻氏(現・浅井企画専務)が、感慨深げに言う。作詞家の石坂まさを氏が藤のために立ち上げた「藤プロ」は、西新宿が出発点だったのである。
〈演歌の星を背負った宿命の少女〉
石坂氏の考案による仰々しいまでのキャッチコピーは、しかし、時代の空気に合っていた。70年安保闘争や東大安田講堂陥落などの映像には、今も決まって藤の歌がバックに流れる。
「娘の宇多田ヒカルの売り上げも凄かったけど、圭子のデビューの衝撃はそれ以上だったね。事務所にもお金がどんどん入ってきたよ」(前出・川岸氏)
のちに「哀愁酒場」(77年)を提供する作曲家の平尾昌晃氏は、藤のデビュー曲「新宿の女」(69年)を聴いて面食らった一人だ。この年、歌謡界は由紀さおり、ちあきなおみらがデビューする黄金期だったが、突出したインパクトを藤は持っていた。平尾氏が語る。
「僕は歌手を続けるかどうか迷っていたけど、彼女の声を聴いた瞬間に『やられた!』と思った。こういう子が出てきたのなら、僕は作曲家に専念しようと。圭子ちゃんは僕が作った『霧の摩周湖』(布施明)や『うそ』(中条きよし)もカバーしてくれているけど、中条くんが『こんなにうまく歌われたらたまんないよ』と言ったくらいだったね」
デビュー曲が37万枚、2作目の「女のブルース」(70年)が74万枚、そして3作目の「圭子の夢は夜ひらく」(70年)は76万枚を売り上げ、社会現象となった。さらにシングルだけでなく、アルバムも爆発的に売れたと川岸氏は言う。
「1枚目のLP『新宿の女』が20週連続、2枚目の『女のブルース』が17週連続で1位。しかも、その2作がつながっていたから、圭子が37週もチャートのトップを走っていた。今でもその記録は破られていないはずだよ」
小柄で色白な17歳の美少女が、ドスの利いた声で暗い人生を歌う。作家の五木寛之氏は当時、こんなふうに藤を評した。
〈歌い手には一生に何度か、ごく一時期だけ歌の背後から血がしたたり落ちるような迫力が感じられることがあるものだ。ここにあるのは『援歌』でも『艶歌』でもない。これは正真正銘の『怨歌』である──〉
石坂門下生で藤と兄弟弟子にあたり、歌手を断念して現場マネジャーとなったのは成田忠幸氏(現ナリプロ代表)である。藤を売り出すための石坂氏のアイデアに、まだ若かった成田氏は、ただただ圧倒されたという。
「僕も純ちゃん(注・藤圭子の本名の阿部純子)と一緒に石坂さんの家に下宿していました。石坂さんは純ちゃんと一心同体になって、売るためのアイデアを次々と仕掛けていきました。そのエネルギーの濃さに『すごい事務所!』と思うしかなかった」
芸能雑誌の編集部に押しかけては、藤のページを割いてもらうために石坂氏がわざと泡を吹いて背後にぶっ倒れる。デビュー曲のタイトルにちなみ、本拠地の新宿で25時間ぶっ通しのキャンペーンを張る‥‥。
四六時中、若く美しい藤と一緒にいる成田氏は、よその事務所のマネジャーから何度も「うらやましい」と言われたそうである。