忘れ去られた「昭和の歌姫」の藤圭子が再び脚光を浴びたのは98年。彗星のごとく現れ、「平成の歌姫」となった宇多田ヒカルの母親としてだった。理想の家族に見えた“宇多田ファミリー”は、世にも奇妙な形態を重ねた。
「あの2人、6回の離婚と結婚を繰り返していてワケわかんないです」
宇多田ヒカルの発言に、世間が騒然となったのは06年のこと。さらに翌年には7度目の離婚に踏み切った藤圭子と宇多田照實氏は25年の夫婦生活を完全に終えた。
振り返れば、ヒカルのブレイクによって全国民に注目されたファミリーが、その強い絆を見せつけたのは00年7月21日のこと。
「紹介します、藤圭子!」
札幌・真駒内アイスアリーナで開かれたヒカルのステージで、舞台裏にいた母親を呼び出し「夢は夜ひらく」をデュエット。唯一の母娘共演は万雷の拍手を浴びた。
一方で82年の結婚、83年の出産から間もなく、夫婦の「すれ違い」はスタートしている。作曲家の平尾昌晃氏が興味深いエピソードを語った。
「ヒカルちゃんが生まれて間もなくだったけど、圭子ちゃんはハワイで2年くらい居候生活を送っていたんですよ」
かつて「トリオこいさんず」という3人組で紅白歌合戦にも出場した関口愛子さんは、ハワイで有名なカラオケ教室を開いていた。藤はここに身を寄せ、カラオケの指導や他のバイトをこなしながら生活していたという。
「そこでは『藤圭子』の名前じゃなく、本名で通したみたいだけど、愛子ちゃんから聞いてびっくりしたよ」(平尾氏)
ヒカルがデビューする直前に、平尾氏のラジオ番組に藤をゲストで招いている。そこでは“ステージママ”の本領を発揮していた。
「私が何も教えないのに、10歳くらいからジャズとか歌いだして。それに声もいいの、マライア・キャリーよりもすごいんだから。平尾先生、1回、聴いてくれない?」
幼い娘を残してハワイ逗留したかと思えば、ひたすら我が子の売り出しに情熱を傾ける。そんな“振れ幅”は、夫婦間においても同様だった。
夫であった照實氏は99年、本誌の独占インタビューに登場し、こんな発言をしている。
「ささいなことで口論になって、お互いが意地を張って、そのまま離婚しちゃって。あとで『寂しいなあ、何であんなことになったんだろう』って。あとで『あれっ』と2人とも思って、『別にこんなことで離婚する必要なんかなかったよな』って思った時に、また入籍してた」
何やらゲーム感覚のような離婚・再入籍の繰り返しである。照實氏によれば、最短で1週間で復縁したこともあった。その理由はこうだ。
「女性って1回離婚したら6カ月かなんか別の相手と再婚できないんですね。でも、相手が同じならいいと(笑)」
最初の離婚は照實氏の「女遊び報道」を藤が真に受けたことが原因だった。その次は仕事の方法論で衝突した末のことだった。
やがてヒカルが成長すると、娘のアドバイスで離婚を決心したこともあった。照實氏はこう告白している。
「僕らが離婚っていう結論に到達する前に、そういう雰囲気になってきた時、横で聞いたヒカルが『ママとお父さんって、離婚したほうがいいんじゃないの』って。そして『2人は合わないんじゃないの。意見聞いてたら、両方の言うことが全然、かみ合ってないよ』と‥‥。それが、ヒカルが8歳くらいの時だった」
宇多田家のポリシーは、家族3人の会話も行動も全てガラス張りであること。そのため、幼い娘から「結婚生活をやめたほうがいい」という意見も飛び出したのだ。
そして、藤がニューヨークのJFK空港で大金を没収されて以降、夫婦の絆も、母娘の縁も完全に切れてしまった。
「故人の遺志で葬儀は行いません」
照實氏がそう発表したのは、夫婦として最後の、せめてもの「共同作業」だった──。