生涯に結婚した相手こそ2人だけだった藤圭子だが、絶世の美貌を世の男女が放っておくはずがなかった。謎の多かった私生活での魔性素顔のベールを剥ぐ。
69年に「新宿の女」で鮮烈なデビューをし、瞬く間にスター歌手となった藤だが、そのわずか2年後の71年に最初の結婚を果たす。その相手こそ、3歳年上で同じくデビュー曲「長崎は今日も雨だった」をヒットさせた前川清(65)だった。
ベテラン記者が説明する。
「当時は歌番組も多く、歌手は楽屋などで一緒になることも多かった。藤は1人ポツンと座っていることが多かったが、お互いの歌手としての才能にあふれた2人がどちらからともなく引かれ合ったのは自然のことだった」
人気絶頂だっただけに障害も多かったが、藤が20歳、前川が23歳という若さで挙式。しかし、その翌年、2人はあっさり離婚してしまう。なぜか。
当時の週刊誌の取材に対し、前川は新婚生活についてこう語っている。
〈あれが夫婦生活なんですかねえ。ぼくらには“夫婦生活”とよべる期間があったのですかねえ。いや、なんというか‥‥とにかく、セックスがなかったのですよ。ぼくらには、ホント。初夜だけだった、といって間違いないところだなあ。一回だけですよ〉(「週刊現代」72年8月31日号)
この他にも「圭子はクールな女でしてね。あまり好きじゃないみたい」「よく拒絶された」「初夜にしても、血の通ったセックスではなかった」など夫婦の営みについて恨み節を交えながら、赤裸々に語っているのだ。
RCAレコードの榎本襄氏はこう証言する。
「あの2人の関係は結婚前にすでに破綻していたんです。6月に婚約を発表し、暮れに長崎の教会で挙式したのですが、秋口を迎える頃、浅草国際劇場の楽屋で本人から『結婚をやめにしたい』と打ち明けられたことを覚えています」
ベテラン記者が振り返る。
「お互いあまりしゃべるタイプではなかった。特に藤は結婚の前には、男性不信どころか男性恐怖症だと言われていたくらい。確か、『ヒロコ』という歌手の付き人の女性とレズ関係だったという噂もささやかれていたほどだった。
離婚の原因は、スレ違いの多い夫婦生活だったことは間違いないが、たとえ一緒にいる時でも会話が少なく、少なくとも前川にとっては安らぎのある家庭ではなかった。なんでも、家での藤はペットの魚を眺めているだけだったんだとか」
2度目の結婚は、歌手を引退し、渡米した先で出会った照實氏だったが、前述のとおり、夫婦は何度も離婚再婚を繰り返し奇妙な夫婦関係だった。
「作家の五木寛之氏が藤の歌声に魅せられ、その歌声を『怨歌』と命名したのは有名な話ですが、他にも浮き名を流した有名人は多い。ノンフィクション作家の沢木耕太郎氏がルポのため密着し、その際にロマンスがあったことも月刊誌に報じられている。とはいえ、育ての母にも搾取されたと絶縁、歌手としての育ての親である故石坂まさを氏とも、晩年は絶縁関係にあった。他人を信用することができず、娘・ヒカルが紀里谷和明氏と結婚する際にも、『相手はお前の財産だけが目当て』と結婚に反対したといいます。身近な関係になるほどに良好な関係が作れなかった藤自身の敏感すぎる気質が、死期を早めたとも言えます」(前出・ベテラン記者)
そんな藤が、最後に頼ったのが、死を選んだマンションで一緒に生活していた30代の男性だった。
「6~7年前、藤は知人に理想の男性が見つかったと話していた」(芸能デスク)
最後に出会った男でも、孤独は埋められなかったのか。