第1回「日本歌謡大賞」(70年)に輝いたのは、「圭子の夢は夜ひらく」だった。デビュー2年目の大きな栄冠だったが、藤は淡々としていたと川岸氏は言う。
「歌謡大賞でもらったトロフィーも『こんなのよりお金もらうほうがいいわ』とつぶやくんだ。彼女は時折感情的になることはあったけど、それも計算ずくな面があったね。例えば六本木の交差点で僕が運転する車から突然、『降りる!』と言って飛び出していく。それでも、現場には必ずやって来るんだよ」
藤自身が「トロフィーよりお金」と言おうとも、事務所やレコード会社にとって賞は“金看板”である。藤の歌の才能にほれ、デビューに奔走したRCAレコードの担当ディレクターだった榎本襄氏が言う。
「石坂さんの家で紹介されて、ちょっと歌ってもらったら鳥肌が立った。お人形さんみたいな顔だちなのに、声はダイナミックレンジが効いていたから」
デビュー当時は白いギターと黒いベルベットの衣装がトレードマークだった。こうしたビジュアル面のプランは榎本氏が担当した。
そして藤圭子ブームは71年の前川清との結婚・翌年の離婚から局面が変わる。デビューから6作連続でベストテン入りのセールスは、みるみる急降下。10万枚に届かない状態が続く。
ほとんどの作品を石坂氏が手がけてきたが、起死回生のため阿久悠氏を起用したのが「京都から博多まで」(72年)だった。
「僕は離婚に向かうゴタゴタでマネジャーを辞める決意をしていたけど、最後に担当したこの曲はどうしても売りたかった。テレビ局や雑誌社など、いろんなところに営業をかけまくったね」(前出・川岸氏)
久しぶりにスマッシュヒットを記録し、復活を印象づけた。続けて同じく阿久悠氏の作詞で出したのが「別れの旅」(72年)だったが、この曲を藤は「歌いたくない」と難色を示す。
それは、すでに離婚を決めていた藤にとって、心臓を貫くような歌詞が書き込まれていたからだ。
〈二年ありがとう しあわせでした‥‥後ろ見ないで生きて行くでしょう〉
マネジャーだった成田氏は、この曲に対する思い入れがことのほか強かった。
「阿久さんも『生涯で十指に入る歌詞』と自負していらした。レコーディングから泣きじゃくっていたように、確かに歌うのは酷かもしれませんが、あれを自分のものにできたら大ヒットしたはずです」
チャンスを逸した藤のレコードはさらに売れなくなり、70年から6年連続で出場した紅白歌合戦も77年に落選。その知らせを聞くと髪をばっさりと切り、手がつけられないほど荒れたという。
79年には引退を発表したが、わずか2年後の81年に「藤圭似子」と改名してカムバック。南沙織や山口百恵を育てた酒井政利氏がプロデュースに当たったが、消化不良に終わった。酒井氏が語る。
「当時の事務所と彼女の意見が合わなくなっていて、復帰作の『螢火』を発売したものの、キャンペーンも一切できなかったんです。彼女自身はやる気満々でしたが、どうにも巡り合わせが悪くなっていた」
翌年には宇多田照實氏と再婚。歌手業は続けていたが、デビュー時の輝きを取り戻すことはなかった。
酒井氏は、死の翌日に行われた石坂氏の「しのぶ会」に藤が出席すると聞いていた。2年前に石坂氏が死を覚悟して「会いたい」と藤に打診した時も、今年3月に石坂氏が亡くなった際の葬儀にも顔は見せていないが、思うところがあったのだろうか。
「僕と彼女の共通の知人に『出ますよ』と伝えていたそうです。そんな気持ちがありながらこういう形になって‥‥。彼女の心の中には、誰も埋められない洞窟のようなものがあるのかもしれません」(酒井氏)
デビューと同じように幕引きもまた、人々に「衝撃」をもたらした──。