中畑清氏と言えば、選手としての活躍もさることながら、2004年にはアテネオリンピック野球日本代表ヘッド兼打撃コーチ・監督代行を務め銅メダルに導くと、その後12年からは横浜DeNAベイスターズの監督に就任し、指導者としての実績も十分である。しかし、そんな中畑氏が読売ジャイアンツでコーチを務めた1993年、94年を振り返り、後悔と反省の日々を過ごしていたと明かす番組があった。
元プロ野球選手、楽天ゴールデンイーグルスでは監督経験もある大久保博元氏のYouTubeチャンネル「デーブ大久保チャンネル」、7月14日投稿の「【神回】#3中畑清大暴走!長嶋茂雄降臨&巨人不仲説の真相」がそれだ。
大久保氏は92年途中、西武ライオンズから読売ジャイアンツに移籍しているが、中畑氏がコーチに就任した93年は監督、コーチ、選手の心の距離感が大きく開き「バラバラだった」と指摘。しかし94年には長嶋監督が全面に出たことで距離感が縮まり、前年のリーグ3位から一気に日本一に輝く躍進を遂げられたという。
そんな中、長嶋監督の手を煩わせることになったのは、中間を成すコーチとしての自身の技量の低さゆえと中畑氏。例えば88年、吉村禎章が外野の守備中に栄村忠広と激突し、左膝靭帯4本のうち3本が断裂、神経まで損傷するという大怪我を負った。のちにカムバックを果たしてはいるが、レギュラーとしては厳しいことから代打専門。そこで中畑氏がDHのあるパ・リーグの方が生かせるのではないかと進言したのだが、吉村に「不要」といらぬ誤解を与えてしまったと語る。
また、駒田徳広に対しても、中畑氏は「駒田頼むぞ!」という気持ちでいたそうだが、本人は打てないことで外されるのではないかと委縮してしまい、話をすればするほどこじれるようになっていったと苦々しく振り返ったのだった。
吉村、駒田には悪いことをしたと後悔しつつ、「技量が無かった」と反省する中畑氏。意外にも優し過ぎる性質ゆえにズバッと言えなかったことからの誤解だったように見える。ただ、その経験が後の監督業に見事生かされているのではないだろうか。常に全力で「絶好調!」と突き進んでいたイメージの強い中畑氏だが、指導者としては早いうちに“急がば回れ”を体感していたと言えそうだ。(ユーチューブライター・所ひで)