麻生太郎政権は、安倍晋三、福田康夫と2代の「政権放り出し」を受けたあとで誕生した。折から、国民も「政権放り出し」にはさすがにアキレたが、自民党の支持率も大きく落ち、メディアの多くは次の総選挙で自民党は敗北、野党第1党の民主党に政権交代を余儀なくされる可能性を指摘していた。こうした中、麻生が自民党総裁に選出されたワケは、大きく二つあった。
一つは、祖父が戦後日本政界の立て役者でもあった吉田茂元総理であり、父親が「九州の石炭王」にして衆院議員も務めた麻生太賀吉という大物であったことだ。そのDNA(遺伝子)を引く麻生太郎なら、自民党支持層を呼び戻すに“適役”との見方である。そのうえで、自民党幹事長はじめ外相、総務相、経済財政政策担当相、経済企画庁長官と、豊富なキャリアを積んでいることもあった。
もう一つは、楽天主義を感じさせるキャラクターとしての明るさである。開けっ広げの性格で、自らのマンガ好きを隠すこともなく、政治家は言葉に慎重となるのが常だが、べらんめえ口調で言いたいことを言う。すなわち、国民の「面白いんじゃないの」のアト押しを受け、総理のイスにすわったということであった。総理就任直後の支持率は、なかなかのものであった。
よって、自民党が麻生に期待したのは、就任直後の支持率の勢いを借りて総選挙に飛び込み、安定政権の確保と党の支持率回復ということであった。
ところが、衆院の解散タイミングを窺っていた麻生だったが、閣僚の失言による辞任、一方で米国発「リーマン・ショック」の直撃を受け、景気の急速な落ち込みに見舞われ、解散時期を逸していた。
加えて、連立政権を組む公明党が強く推進した、不況を支える「定額給付金」が“バラマキ批判”を浴びて評判が悪い。折から自民党が消費増税を巡って二分されていることもあって、一致団結して解散・総選挙に、とはならなかったのだった。
もっと言えば、一時はべらんめえ口調で人気もあった麻生ではあったが、発言にブレが目立ち始めた。一方で、「踏襲」を「ふしゅう」、「未曽有」を「みぞうゆう」と読み違えるなど、日本国のトップリーダーが中学生並みの漢字も読めないのか、との批判も浴びた。同時に、ホテルのバー通いなども批判の対象となり、麻生自身への求心力が低下一途となったことが、解散に踏み切れない要件となったのだった。
しかし、民主党の小沢一郎代表(当時)の公設秘書が違法献金事件で逮捕され、北朝鮮による長距離ミサイル発射実験などもあり、解散のタイミングはあった。だが麻生は結局、決断できなかった。これには、自民党のベテラン議員からこんな声があったものだった。
「どうも側近、取り巻きが的確な情報を麻生に入れてなかったとみている。麻生は自派の大親分だから、遠慮もあったようだ。だから判断がブレた。結局、このブレが、麻生政権の命取りになったということだよ」
主君と側近の理想的な関係は、側近は時に主君にとって耳に痛い情報であっても、正確にそれを伝えられる関係にあるかということである。耳ざわりのいい情報ばかりを入れていると、主君は判断、決断で取り返しのつかないミスを犯すことになりかねない。これが、「側近政治」の怖いところで、麻生派にはそうした危うさがあったということだった。
そうした中で、麻生はツキにも見放され、ジレンマの連鎖のなかにいた。総選挙があればその前哨戦になるとされた東京都議会議員選挙をはじめ、地方選ではことごとく敗北といったありさまだったのだ。ついには、自民党内からも「麻生降ろし」の声が出始めるといった具合だったのである。
■麻生太郎の略歴
昭和15(1940)年9月20日、福岡県飯塚市生まれ。学習院大学政経学部卒業。麻生セメント社長、日本青年会議所会頭を経て、昭和54(1979)年10月、衆議院議員初当選。平成20(2008)年9月、内閣組織。総理就任時68歳。現・副総理兼財務大臣。現在79歳。
総理大臣歴:第92代 2008年9月24日~2009年9月16日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。