父親は元総理大臣の福田赳夫で、憲政史上初の「父子総理」として登場したのが福田康夫であった。
しかし、政権取りにギラギラしたところがなかった父親に似たか、政権意欲が乏しかったのがこの康夫であった。なぜなら、元々、政治家になる気がなかったからにほかならなかった。
例えば、自らの結婚に際し、現夫人の貴代子に対して「政治家の女房には絶対にしない」と誓ったうえ、早稲田大学政経学部を卒業すると「丸善石油」に就職、そのまま17年間のサラリーマン生活を送っている。
こうしたサラリーマン生活にピリオドを打ったのは、父・赳夫の秘書でもあった二男・征夫が病に倒れたことにより、父親の秘書に転身せざるを得なかったからということであった。それから秘書を10年余、赳夫の引退、その後継として平成2(1990)年2月の総選挙に初出馬、「総理の息子」は断然キラめく“七光り”であり、当然のように当選を飾ったということだった。天下取りの野望なし、時に53歳の“遅咲き政界デビュー”だったのである。
それからの10年は、鳴かず飛ばずの議員生活だったが、森喜朗内閣で官房長官兼沖縄開発庁長官として初入閣したのを機に、存在感を示すことにつながった。以後、平成16(2004)年5月まで、小泉純一郎内閣で3年半にわたって官房長官を留任、テレビで顔をさらすことが多くなったことで国民に知られるようになった。記者会見はひょうひょうとした口調とユーモアで親しみやすかったが、一方で時折、短気な一面も見せた。会見時間が長引いたり、記者の質問がやっかいなものだったりすると、イライラをあらわにし、演壇を指でトントンと叩くのである。まずは、自らが前に出ることなし、可もなし不可もなしの“解説官房長官”と言えた。
そうした中で、前任の安倍晋三総理が参院選の敗北、自身の体調悪化により電撃辞任、自民党内はこの「政権放り出し」で混乱、党の支持率も低下の中、新しいリーダー選びとなったのだった。
ここで、福田の中で何かが弾けたようであった。
あれだけ政権意欲のなかったハズが、総裁選出馬に手を挙げたのである。対抗馬は、麻生太郎であった。結局、ヤル気十分の麻生を制して福田が勝ち上がるのだが、このときの総裁選の背景を、当時の自民党ベテラン議員は次のように語っていたものだった。
「麻生は、政治信条としては安倍に近い。対して、福田は父親同様の“親中派”であるように、ハト派的体質だ。結局、これが勝負を分けた。年齢的に若い安倍に対して、福田は年を重ねて安定感がありそうだというのは、国民の大方の見方でもあった。同時に、各派閥の領袖は安倍と体質の似た麻生でなく、対岸に位置する“福田乗り”となった。福田は当初、総裁選出馬に意欲がなかったが、各派の支持が傾いたことで、『それなら』ということになった」
こうした各派の動きは、自民党が長期政権を維持してきた「政権振り子理論」ということでもあった。すなわち、例えば政権をタカ派からハト派へと“色”を変え、時計の振り子のように振れ幅を大きくした政権の体質変化を提示することで国民の歓心、支持を買うという“手法”であった。自民党お得意のこの「政権振り子理論」により、担ぎ出されたのが福田康夫政権ということだったのだ。
■福田康夫の略歴
昭和11(1936)年7月16日、群馬県高崎市生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、丸善石油入社。父・福田赳夫の秘書、首相秘書官を経て、平成2(1990)年2月、衆議院議員初当選。小泉内閣官房長官を経て、平成19(2007)年9月、内閣組織。総理就任時71歳。現在83歳。
総理大臣歴:第91代 2007年9月26日~2008年9月24日
小林吉弥(こばやし・きちや)政治評論家。昭和16年(1941)8月26日、東京都生まれ。永田町取材歴50年を通じて抜群の確度を誇る政局分析や選挙分析には定評がある。田中角栄人物研究の第一人者で、著書多数。