「ボス」亡きあと、石原軍団を率いてきた渡哲也が、8月10日に他界していたことがわかった。たび重なる病魔を乗り越え、軍団の生活を守るために、私財をもなげうった。最後まで「男の筋」を貫き、軍団に尽くし、逆境をはねのけてきた無頼俳優の生き様とは──。
「ここ最近は、足腰もかなり衰弱していて、酸素吸入器を手放せない状態が続いていました。そのため、6月に行われたCMのナレーション収録は自宅で行われたほど。昨年の石原裕次郎さんの33回忌法要にも顔を見せず、健康状態が心配されていました。ただ、渡さん本人は、石原プロ解散の道筋をつけたことで、かなりホッとしていた様子だったといいます。そのやさきの急死でした‥‥」
こう振り返るのは、渡哲也と生前に親交のあった芸能関係者だ。
今月9日に容体が急変し、緊急入院。翌10日に肺炎で急逝した。享年78。芸能関係者が続けて語る。
「派手なアクションドラマや映画での豪放磊落なイメージが強いですが、実は前面に立って目立つことをよしとしないタイプでした。生前には『遺言』として『自分の訃報は一切、周囲に知らせるな。葬儀も身内だけで行え』と指示していた。しかも社葬やお別れの会の類いも一切しないように厳命していた徹底ぶりで、舘ひろし(70)や神田正輝(69)といった石原軍団の面々も、訃報を聞いたのは12日になってからでした」
渡にとって、テレビで最初の当たり役となったのは「大都会」シリーズ(76~79年、日本テレビ系)の黒岩刑事だ。特に傑作の呼び声も高い「PARTII」では、角刈りにサングラスの硬派イメージを定着させた。
初回の冒頭から松田優作扮する徳吉刑事と張り込みをしながら、チンピラにからまれる若いカップルを見て、優作が渡に聞く。
「クロさん、どうします?」
「知るか、ほっとけ」
従来の刑事ドラマにないハードな役柄は、その後の「西部警察」シリーズ(79~84年、テレビ朝日系)の大門刑事にも踏襲された。
両シリーズとも「石原プロモーション」が制作に乗り出し、多額の負債を解消できたことで知られる。
渡は64年に「日活」に入社し、65年に映画「あばれ騎士道」でデビュー。56年に及ぶ役者人生は、逆境との闘いでもあった。
66年の映画「愛と死の記録」では、3歳下の吉永小百合と共演。原爆の惨禍での純愛を描いた作品のロケは主に広島で行われたが、ここで2人は大恋愛に落ちる。だが、そこには大きな荒波が待っていた。当時を知る映画関係者が明かす。
「渡は小百合のことを『うちのカミさん』と呼ぶようにまでなったんですが、酔っぱらうと『小百合はなんで俺のところに飛び込んできてくれないんだ!』と大荒れ。小百合に電話をして結婚を迫ったといいます」