渡哲也(享年78)の訃報は、日本中に哀切をもたらした。ずっと兄貴分と慕った苅谷俊介(73)が、人気ドラマのエピソードとともに「師」との交友を語る。
──映画デビューが71年で、石原プロモーションには74年に入社されていますね。
苅谷 あの頃の石原プロは借金だらけのどん底の状態。その当時から知っている俳優は、もういなくなっちゃったね。
──初めてのレギュラードラマが「大都会PARTII」(77~78年、日本テレビ系)ですね。城西署の弁慶こと宮本刑事の役です。
苅谷 決めゼリフの「城西署の弁慶だあ!」は僕のアドリブ。あのドラマは松田優作さんが自分のアドリブを台本にびっしり書き込んで、それに渡さんも乗って応えることもあったよ。
──劇中で松田優作に「彫が深いんだよ」とからかわれることもありましたが、異色の存在でしたね。
苅谷 それまでの刑事ドラマは二枚目ばかり出ていたけど、悪役みたいな顔の刑事がレギュラーになったのは初めてじゃないかな。
──続く「大都会PARTIII」(78~79年)にも続投。ここから石原プロお得意の派手なカーチェイスや爆破シーンが本格化しますね。
苅谷 僕らも自分の出番がない時は、道路に人が入ってこないようにガードしてたよ。今じゃ、あんなシーンは道路使用許可が絶対に下りないだろうけど(笑)。
──その流れは、源田刑事として出演した「西部警察」(79~84年、テレビ朝日系)でも続きますが。
苅谷 ようやく役者としてメシが食えるようになっていったね。最初の頃は看板屋のバイトと掛け持ちで、作業着のまま兄イ‥‥プライベートでは渡さんを兄イと呼んでたんですが、「家に行っていいですか?」と電話して遊びに行かせてもらって。泥だらけの作業着でも「おう、入れ」って、いつも迎えてくれたよ。
──石原プロ入りのきっかけになった「兄イ」との思い出は尽きないようですね。
苅谷 78年の暮れに「大都会PARTIII」の収録をやって、たしかガッツ石松さんが犯人役で出た回。年内最後だから「飲みすぎるなよ」という感じに終わったんだけど、兄イに「カリ、ちょっと来い」と呼ばれまして。実は女房が子宮の病気で入院して、キャベツ大の血の塊ができるほど悪化してたんですよ。
──そのことを知っていたんですね。
苅谷 それで「見舞いといったら普通は花を贈るんだが、これ取っとけ」って分厚い封筒を渡されて‥‥。あれは、卸売センタービルの屋上だったかな。手すりに突っ伏して、涙が止まらなかったよ。
──ただ、82年に人気番組だった「西部警察」を途中で降板し、石原プロを退社という選択をされたのは?
苅谷 ずっと考古学に興味があって、ここらで役者と並行しながら本格的にやってみようかと。仲がよかった舘ひろしが群馬の温泉で送別会をやってくれただけでなく、何かと金もいるだろうからってレコード会社に話をつけて、僕にレコードを出す契約料も用意してくれた。あいつは渡さんを尊敬しているだけあって、誰かが困った時に何をすべきかを常に考えてくれるんだよ。
──慕い続けた「兄イ」との別れは、どう迎えましたか?
苅谷 実は、ウチの女房が今年4月に悪性リンパ腫で亡くなってね。そのことを渡さんになかなか言いだせず、ようやく7月に入ってから、石原プロの統括に伝えてもらって。その2日後には、渡さんから「かけてやる言葉もないよ」って、電話があって‥‥。それが最後の会話だ。今は奥さんのショックもわかるので、四十九日も過ぎたら、ご自宅に伺おうと思っているよ。