《噺家と掛けて、刑事事件と解く。そのココロは創作(捜索)もあるでしょう》鶴光
鶴光 いわゆる上方落語の四天王の中では、(三代目桂)春團治師匠がいったん破門となったら、ナンボ謝ろうとダメ。許してくれん。(三代目桂)米朝師匠は、破門せん代わりに、2時間も説教。
好楽 それは厳しい。
鶴光 漫談家の月亭可朝兄さんは、林家染丸師匠に入門したものの女性問題で破門されて、米朝師匠に引き取られたんやけど、そこでもしくじって、「僕の視界から消えなさい」。で、KBS京都の生放送に米朝師匠が出演していると、スタジオに突然入ってきて、「師匠、すいません」。生放送中にこんなことされたら、許すしかない。
好楽 あの人らしいね。
鶴光 (三代目桂)小文枝師匠はバーン。かつて「土曜ひる席」(NHK大阪)ちゅう番組で、桂きん枝(のちの四代目桂小文枝)が遅れてきよった。顔を出すなり、小文枝師匠に殴られて「お前は立入禁止や」。それを聞いて、あいつの本名は「立入」やから「キンシ」ちゅうのは合ってるなと感心したもんや。
好楽 あんな穏やかな師匠がそんなこと、するんだ。
鶴光 林家九蔵で真打昇進後、間もなく彦六師匠が亡くなって、(五代目三遊亭)圓楽門下になり、「好楽」になり、同時に落語協会から大日本落語すみれ会(現在は圓楽一門会)へ移籍。「笑点」も一時降りた。
好楽 圓楽一門会は落語協会分裂騒動で東京の寄席から締め出されて、「大企業から中小企業に行くなんてバカだね」って言われた。その間、圓楽師匠の「噺家は言葉を生業にするふてえ商売だ。だから勉強しなきゃダメだ」の言葉が響いた。
鶴光 落語はいつから?
好楽 警察官の親父が40代で急死して、お袋が炭を売ったりして、子供たちを育ててくれたの。アタシは8人兄妹の6番目。ヤンチャだったから、包丁を投げられるワ、裁ちばさみは飛んでくるワ。そんな怖い母親が唯一笑顔になったのは、夜10時、寝転がってラジオで落語を聴いてる時。先代の(三代目三遊亭)金馬師匠の「孝行糖」「転失気(てんしき)」でゲラゲラ。なんだ、この魔物はって、ラジオで聴きまくり、高校時代は池袋演芸場に日参。いちばん前に座ってました。
鶴光 すごい噺家、聴いてるわけやね。
好楽 黒門町の(八代目桂)文楽から(五代目古今亭)志ん生、(六代目三遊亭)圓生、のちの人間国宝の(五代目柳家)小さん、(六代目春風亭)柳橋、(六代目三升家)小勝、そして柳家小ゑん時代の(七代目立川)談志、古今亭朝太時代の(三代目古今亭)志ん朝‥‥。
鶴光 好楽さんがうまい噺家と思ったのは誰?
好楽 やっぱり文楽師匠だね。あと、圓生師匠はラジオにもってこいのリズム感。志ん生師匠は最後の最後の「火焔太鼓」がすごかった。脳出血で倒れたから、最初は言ってること、わかんないんだけど、最後は大爆笑。
鶴光 志ん生師匠のお嬢さんに聞いたら、昔は陰気な噺家だったのが、初代柳家三語楼の滑稽噺を聴いて、落語ってこんなふうにおもしろくできると思うたんやて。それから爆笑派になった。
好楽 きっかけってあるんですよ。談志師匠も小さん(の演目)が得意だったし、師匠の圓楽も圓生(の演目)が得意。けど、そこから脱皮して、天下の談志、天下の圓楽になったわけ。志ん朝師匠はおとっさんが志ん生で、兄貴が(十代目金原亭)馬生、高校時代に噺を全部覚え、前座の時に独演会やったら超満員。3年半かそこらで真打になっちゃう。
鶴光 で、談志師匠が「なんで3年か4年の小僧に抜かされるんだ」って怒ったわけや。志ん朝師匠と談志師匠は、ウチの松鶴の「らくだ」を聴いて、鳥肌立ったて言うてました。志ん朝師匠は、若旦那はうまいけど、貧乏人ができない。昔のなめくじ長屋の時代は全然知らんわけやから。
好楽 人形町の末廣の楽屋に売れっ子の志ん朝師匠が入ってきた時、光り輝いてました。「オレのクルマ、見ていてくれる?」って言われて行ったら、007が乗るアストンマーチン。世界に10台もないやつ。
笑福亭鶴光(しょうふくてい・つるこ)1948年1月18日、大阪市出身。67年、上方落語の六代目笑福亭松鶴に入門。74年からニッポン放送「オールナイトニッポン」などのパーソナリティとして人気。東京を拠点に上方落語の発展に尽くす。上方落語協会顧問。落語芸術協会上方真打。J:COMJテレにて隔週土曜「オールナイトニッポン.TB@J:COM」などに出演中。「最近、昔の噺家の名演が配信されとる。エエこっちゃ。落語の配信と掛けて、二日酔いのクスリと解く。そのココロは、聴く(効く)と笑顔が戻るでしょう」
三遊亭好楽(さんゆうてい・こうらく)1946年8月6日、東京・東池袋出身。66年、八代目林家正蔵(のちの彦六)入門。林家九蔵を名乗る。79年、日本テレビ「笑点」の大喜利メンバーに。81年、真打昇進。82年の師匠彦六死去に伴い、83年五代目三遊亭圓楽門下に移籍。好楽に改名。一時、「笑点」を降板するが、88年復帰。12年、自叙伝「好楽日和。」(晶文社)出版。13年、自宅に寄席「池之端しのぶ亭」オープン。20年から圓楽一門会顧問。「100回の稽古より1人のお客さんの前で演じるほうが勉強になる。で、『しのぶ亭』を作ったの」