《リモート笑点と掛けて、子供のケンカと解く。そのコロロは、女房が顔を出すこともあります》鶴光
鶴光 (三遊亭)小遊三さんはどう?
好楽 メンバーの中ではいちばん真面目。けど、こんなことも。地方の営業から帰って東京駅に着いたあと、一緒に旅した漫才師が小遊三さんのとこに電話したの。そしたらカミさんが「今日は泊まりじゃないんですか」。
鶴光 この対談に出てもろうた時、「老後は妻と一緒にゴルフ」て言うてたで。
好楽 アタシが石神井公園の団地に住んでた頃、(六代目三遊亭)円楽はすでにテレビで売れてて、便利な神田にマンション借りてたの。で、よくカミさんに「楽太郎(当時)のとこに泊まるから」って言ってたの。ある日、パーティーでウチのカミさんが楽太郎のカミさんに「いつも悪いわね、泊めてもらって」と言ったら、「えっ、一度も泊まったことないわよ」って。
鶴光 アチャーッ!!
好楽 2人とも下向いて、靴のヒモ、直してる。
鶴光 最初は八代目林家正蔵(のちの林家彦六)のところに入門したんやね。
好楽 高校時代、ラジオから流れた正蔵師匠の人情噺「鰍沢(かじかざわ)」を聴いて、「こんな語り口もあるのか。すごい」と感動し、翌日、上野の稲荷町の長屋に弟子入り志願。断られたものの、4日間通い詰めて許されました。その時、師匠はおかみさんに「ノブオが戻ってきた」って。17歳で亡くなられた師匠の長男は、アタシと同じノブオだったんです。ご縁ですね。
鶴光 酒の失敗、いろいろ聞いてるで。
好楽 師匠が地方の寄席へ出かけた時、兄弟子や高校時代の仲間とどんちゃん騒ぎ。師匠、紫綬褒章とか授与されてるでしょ。そのたびに祝い酒が何十本と届いて、たまる一方。それ、全部飲んじゃった(笑)。それから、師匠の自宅そばのスナックに行ったら、棚にジョニーウォーカーの赤が燦然と輝いていて、値段も聞かずに仲間と飲み始めたの。
鶴光 1ドルが360円の時代や。
好楽 当時、鈴本で働くと1日100円だったのに、ツケが5万1000円。師匠が「バカ野郎、破門だ!」。すぐに隣の米屋さんに電話借りて、お袋に「悪いけど、おカネ持ってきて」って。
鶴光 今やったら、オレオレ詐欺て思われるで。
好楽 「いくらだい?」「5万1000円」。お袋、「ぎゃおー!」って聞いたことのない声で叫んだね。近所の人に借りたんだろうね。クチャクチャの100円札、500円札を持ってきた。
鶴光 ドラマ「北の国から」(フジテレビ系)の泥のついた1万円札と同じや。
好楽 師匠、「この親不孝者め」って、アタシを連れてスナックに行き、今度は逆に「こんな子供に飲ませるとは」って怒ったの。そしたら1万円負けてくれた(笑)。
鶴光 破門は何回?
好楽 全部、酒がらみで23回。数えてる兄弟子がいたの。(立川)談志師匠でさえ13回なんだって。
鶴光 ウチの師匠の(六代目笑福亭)松鶴は、機嫌が悪いと、とりあえず「紋付返せ。明日持ってこい」。翌朝、入り口で待ってて、「アホンダラ、ボケ、カス」言うたあと、「入れ」。ワシの「うぐいすだにミュージックホール」がヒットした時も、「ストリップの歌なんか歌いやがって」と3カ月の破門。何やかやと難癖。
好楽 すごいね。
笑福亭鶴光(しょうふくてい・つるこ)1948年1月18日、大阪市出身。67年、上方落語の六代目笑福亭松鶴に入門。74年からニッポン放送「オールナイトニッポン」などのパーソナリティとして人気。東京を拠点に上方落語の発展に尽くす。上方落語協会顧問。落語芸術協会上方真打。J:COMJテレにて隔週土曜「オールナイトニッポン.TB@J:COM」などに出演中。「最近、昔の噺家の名演が配信されとる。エエこっちゃ。落語の配信と掛けて、二日酔いのクスリと解く。そのココロは、聴く(効く)と笑顔が戻るでしょう」
三遊亭好楽(さんゆうてい・こうらく)1946年8月6日、東京・東池袋出身。66年、八代目林家正蔵(のちの彦六)入門。林家九蔵を名乗る。79年、日本テレビ「笑点」の大喜利メンバーに。81年、真打昇進。82年の師匠彦六死去に伴い、83年五代目三遊亭圓楽門下に移籍。好楽に改名。一時、「笑点」を降板するが、88年復帰。12年、自叙伝「好楽日和。」(晶文社)出版。13年、自宅に寄席「池之端しのぶ亭」オープン。20年から圓楽一門会顧問。「100回の稽古より1人のお客さんの前で演じるほうが勉強になる。で、『しのぶ亭』を作ったの」