正子さんが初めて藤に会ったのは、ニューヨークのカフェでお茶を飲んでいる時だった。
「日本人らしい女性が前を通り過ぎたと思ったら、すぐに戻ってきて『日本人ですか?』と聞かれました。その時は気づかなかったのですが、それが藤圭子でした。彼女に『アパートを探している』と相談され、一緒に探し、レキシントンアベニューで、新築のアパートを見つけました」
その後、正子さんはある事情から、2人で探したそのアパートの同じ部屋で3カ月後に自分が帰国するまでの間、藤と同居することになったという。家賃は折半し、家具は藤がそろえたそうだ。正子さんが続ける。
「彼女は日本食が好きで、まず炊飯器を買い、お味噌汁を作るなど、自炊していました。昼間は語学学校に通い、一生懸命、英語の勉強をしていて芸能界のことは口にすることはなかったです。たまにシャワーを浴びながら、『♪京都から博多まで‥‥』と、自分の歌を口ずさんでいましたね」
藤はニューヨークの生活の中で、大切に保管していたものがあった。
「沢木さんが彼女について書いた、300枚くらいのインタビュー原稿を大事に持っていたのを覚えています。沢木さんは、当時連載していた新聞の連載が終わったら『コロンビア大学のジャーナリズム科に通う予定だった』そうで、このアパートで一緒に暮らすために待ち続けていたようです」(正子さん)
しかし、その思いはむなしく、沢木氏が“愛の巣”を訪れることはなかった。当時を知る大手出版社の編集者は言う。
「藤さんが渡米前、都内で2人が恋人のように寄り添い、一緒にいるところを見かけた社員もいて、沢木さんは結婚していたので、不倫なのかと話題になりました。ただ、沢木さんは仕事も順調だったので、全てをリセットし、アメリカで生活する決心がつかなかったのかもしれません」
一方、藤のほうは、のちに結婚する宇多田照實氏(65)とも、このニューヨーク時代に出会っていたという。藤と正子さんがアパートに入居した際にパーティを開いた時である。
「私が呼んだ知り合いの中に、当時は現地でコーディネーターをしていた宇多田さんもいらっしゃいました」(正子さん)
その後、いつまでたっても渡米しない沢木氏を見限り、藤の心は宇多田氏に傾いていったのか──。
こうして正子さんの記憶からも藤と沢木氏の悲恋は薄れつつあった99年、藤の娘の宇多田ヒカルのブレイクを機に、月刊誌「噂の眞相」で、“沢木耕太郎が宇多田ヒカルの本当の父親だったのか”という疑惑を追った記事が掲載された。
記事では沢木氏へのインタビューも行われており、その一部を抜粋しよう。
〈──少なくとも当時、藤さんは沢木さんのことが相当好きだったはず。男女関係になったから(インタビューを)発表しなかったのではないんですか?
沢木 うーん、当時は深く取材していたからね‥‥。その辺の兼ね合いは難しかった。(中略)あの時、彼女がどういう想いで僕にあそこまでしゃべってくれたのか、それは何となく分かったし、僕ももともと彼女には好意を持っていた〉
〈──(中略)彼女は沢木さんへの想いを断ち切るために宇多田照實氏へと走った、そう思いませんか?
沢木 いや、まあ、そんなことはないんでしょうけど‥‥、ただ、取材のプロセスで確かに彼女は僕に好意を抱いていたし、僕も好意を抱いていた。これは間違いありません〉
記事では“セクシャルな関係”こそ否定していたが、どこか含みを感じさせる受け答えにも読める。
本誌は、あらためて沢木氏を直撃した。
──なぜ、このタイミングで藤圭子さんとの本を出版したのか?
「(『流星ひとつ』の)あとがきに書いてあるので、あらゆるインタビューは断っているんです、ごめんね。申し訳ないんだけど、あとがきで読み取ってくださればと思います」
──藤さんはニューヨークで沢木さんを待っていたという新たな証言もあります。藤さんと交際し、男女の関係だったんでしょうか?
「申し訳ない。今、さっき言ったことでいいかな」
2人の「愛欲過去」は沢木氏の胸に秘められたままだが、天国の藤は、沢木氏のインタビュー本をどんな思いで読んでいるだろうか。