ステージに現れたのは全身黒ずくめのシックな衣装だが、短めのTシャツからはバッチリへそ出しを決めている。これが弱冠13歳、デビュー曲「AUTOMATIC」で255万枚の大ヒットを放つ僅か2年前の映像である。
当時の宇多田を知る知人は言う。
「当時、ヒカルは都内のアメリカンスクールに通っていました。学校での成績は常にAばかりと優等生でしたが、勉強だけでなくバスケットやマラソンなどスポーツでも才能を発揮していました。有名人の子供らしいことは知っていましたが、音楽活動については公表していませんでした」
そんな宇多田が、学校の文化祭で後にJ-POP界を席巻する天賦の片鱗を見せたお宝映像なのだ。
ピアノの調べに合わせて歌いだしたのはマライヤ・キャリーの初期のバラード「ミュージックボックス」。今と変わらないベルベットな声で囁くように歌い上げる。切ない胸のうちを表すかのように左手を胸に当て、時折、顔をシェイクさせる唱法はすでに完成された宇多田ヒカルそのものであった。
8月22日に帰らぬ人となった母・藤圭子は、娘ヒカルについて、
「娘は本当に天才なのよ。マライヤ・キャリーよりも上手いのよ」
と音楽関係者に吹聴していたというから、自慢の娘が母のリクエストに応えて何度となくこのマライヤの楽曲を歌ったのは間違いないだろう。
母の死から4日後、「母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです」とコメントした宇多田ヒカル。歌手活動を休業中の彼女が再びファンからのリクエストに応える日が近いことを願うばかりだ。