「上を向くな。しゃべるな。うつ伏せで暗い顔をしろ」
石坂が圭子に課した“三原則”だった。千秋は、本来は明るくしゃべり好きな圭子が、歌のイメージに沿って「暗い影」を成立させていることに目を見張る。
「千秋さんにはたくさんのウソをついてきました」
後に石坂が千秋に詫びた一言である。決して悪気があったわけではなく、藤圭子という歌手を売り出すためにウソを重ねた。いわば存在そのものが石坂の“作品”であった。
「石坂に対しての不信感はあったけど、チーフマネジャーがいいヤツだったせいもあって、いろんな番組に圭子をブッキングしたよ。それであっという間に売れっ子になり、その後は各局で圭子の奪い合いだ」
70年には千秋が中心になって「日本歌謡大賞」が誕生する。その前年に「日本レコード大賞」がTBSの独占で大みそかに生中継することになり、これに反発したテレビ・ラジオの各社が持ち回りで放送することを決めた賞である。
「第1回日本歌謡大賞は、藤圭子が歌った『圭子の夢は夜ひらく』です!」
まだテレビ中継はなかったが、11月9日に東京ヒルトンホテルで行われた授賞式で、19歳の女王が誕生している。第1回の「レコード大賞」を獲得した水原弘がそうであったように、圭子自身、この賞にピンと来なかったというのが正直なところだった。
「トロフィーよりもお金が欲しいわよ」
自身のスタッフにそんなジョークをぶつけている。
やがて千秋の妻である畠山みどりは圭子と同じ「RCAレコード」に移り、同じディレクター・榎本襄が担当するようになった。
また千秋がフジテレビを退社後、ラジオ日本で担当した番組にはゲストに圭子が登場。まだデビュー前だった宇多田ヒカルの自慢を語っていた。不思議な縁は続いていたが、ふと、思い出したように言う。
「彼女は岩手の出身だから、『遠野物語』に出てくる“座敷わらし”のようだった。ふと現れ、そしてフッと見えなくなってしまったように思えるね」
そんな精霊のようなイメージの藤圭子が、唯一と言っていいほど炎を燃やしたのが「紅白歌合戦」である。圭子と同い年で、3年ほどマネジャーを務めた梅津肇が言う。
「純ちゃん(本名・阿部純子)は、とにかく紅白を大事にしていた。いつもフィナーレの時間になると涙をこぼしていたくらい、彼女には神聖な番組だった」
第1回の「歌謡大賞」には冷淡な態度だったが、やはり「紅白」は別モノである。70年に初出場した「圭子の夢は夜ひらく」は、こんな歌詞から始まる。
〈赤く咲くのはけしの花、白く咲くのは百合の花〉
筆者は2年前、石坂まさをの自宅で生前最後となるインタビューをした。そこで「夢は夜ひらく」の詞に込めた“謎かけ”を聞いた。
「歌手にとって最大の目標は『紅白』です。私は39度の熱でフラフラしながら、それでも『赤く咲くのは、白く咲くのは』と出場への願掛けを書いたんだ」
70年から3年連続、そして再び75年から2年連続の出場。落選した回も含め、すべてに壮絶なドラマが待っていた──。