日本中に衝撃が走った藤圭子の飛び降り自殺──。若い世代には「宇多田ヒカルの母」であるが、70年代の歌謡曲黄金期には「閃光」として降りそそいだ存在。ただし、その光は虹色ではなく、暗くうごめく怨念の色である‥‥。これより、藤圭子を〈別れの旅〉へと導いた日々と、昭和歌謡の知られざる闇を解いてゆく。
〈幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。病状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました〉
それは「8月22日の朝」と題された宇多田ヒカルの公式コメントであった。記された日時に母・藤圭子は、西新宿のマンションの13階から飛び降り、62年の生涯を終える。
ヒカルの冷静な筆致により、家族間における「母の変貌」が明確に読み取れる。
〈私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです〉
07年に父・照實と母が7度目の離婚をして以降、ともに過ごすことはなくなっていた。その前年には「5年で5億円使った」と途方もないギャンブル癖を明かし、家族崩壊の決定打となった。
それでも‥‥ヒカルはコメントをこう結ぶ。
〈悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。母の娘であることを誇りに思います〉
その根底にあるのは、昭和と平成のそれぞれで「歌姫の頂点」を極めた者のみが知る“連帯”であろう。ヒカルは絶頂期にあった00年7月、自身のライブで舞台袖にいた母を呼び寄せ、2人で「圭子の夢は夜ひらく」(70年4月)をデュエットしている。
また昨年も「面影平野」(77年11月)の映像を〈歌うカーチャンすごくかっこ良くて美しくて〉と素直に讃えている。
83年に生まれたヒカルは、藤圭子の全盛期である70年代を知らない。母を凌駕するメガセールスを記録しようとも、歌手としての尊敬の念は別格である。
この訃報を機に、藤圭子のCDが売れに売れている。娘のデビュー(98年)と前後して歌わなくなった母だが、昭和の歌謡界に残した功績は凄まじい。上表にあるようにデビューから6作連続でベストテン入りのヒットを重ね、アルバムにおいては3作にまたがり「42週連続1位」という不滅の記録を持つ。
いや、こうした数字以上にデビューそのものが衝撃であった。五木寛之が命名した「怨歌」というジャンルでありながら、そのビジュアルはアイドル並みに愛らしい。当時、現場付きのマネジャーだった梅津肇が証言する。
「演歌歌手なのに『平凡』と『明星』の週刊・月刊いずれもが表紙や巻頭グラビアを奪い合っていた。わざわざマンションの一室に部屋をこしらえて『圭子のマイルーム公開』を実現させた撮影もあったよ」
圭子と同い年だった梅津は、総帥である石坂まさをの熱情に引っ張られ、マネジメントを学んでゆく。梅津は後に郷ひろみやピンク・レディーも担当するが、原点となったのが「70年の藤圭子」である。
「全国どこへ行ってもすごい人が集まった。九州で公演を打つと、入りきれない人が会場をぐるりと一周していたこともありました」
この時代、芸能界の中心は「ヒット曲を持つレコード歌手」で回っていた。
◆アサヒ芸能9/3発売(9/12号)より