●ゲスト:原田大二郎(はらだ・だいじろう) 1944年、山口県出身。大学卒業後の67年、「劇団文学座」に入座。70年、映画「裸の十九才」で主役デビュー。75年、「Gメン’75」(TBS系)の関屋一郎警部補役で全国区となる。その後、映画「蒲田行進曲」「敦煌」などの話題作に出演。85年公開の映画「哀しい気分でジョーク」への出演を機にバラエティー番組でも活躍。現在、隔週刊「Gメン’75 DVDコレクション」(デアゴスティーニ)が発売中。
70年の映画デビュー以降、50年以上にわたって多くの映画やドラマで活躍してきた俳優・原田大二郎。中でもその人気を不動にしたのが「Gメン’75」だ。しかし、放送開始後しばらくして途中降板。その裏では何が起きていたのか。天才と呼ぶテリーだけにこっそり明かしてくれた。
テリー 何年ぶり?
原田 前に高島屋かどこかで会わなかった? あの時、あ、覚えててくれたって、うれしかったんですよ。
テリー 忘れるわけないですよ。仲間だもの。
原田 ほんとに戦友だよね。僕が「(天才・たけしの)元気が出るテレビ!!」で一緒だったのは「幸福配達人」という企画だけだったけど、「あ、この人は天才だ」と思って。
テリー いやいや。
原田 僕は新藤兼人さんの作品でデビューして、その後もいろんな監督とやってきたけど、天才だと思ったのはテリーさんだけ。なにしろあなたのひと言で(ロケ地の)川崎の商店街が燃え上がっちゃうんだから。
テリー いい時代でしたよね。だけど正直言うと、最初僕は原田さんの使い方がわからなかったんですよ。
原田 たけちゃん(ビートたけし)がゴリ押しで入れてくれてね。たけちゃん主演の「哀しい気分でジョーク」という映画に出た時に小1時間話していたら(明治大学の)先輩後輩の関係だし、「あいつ、おもしろいから使ってくれ」って、たけちゃんが勧めてくれたというのは聞いたんですけどね。
テリー そうそう。
原田 僕も「徹子の部屋」に一度出た以外はバラエティーの仕事をするのは初めてで。まったくわけわかんなかったですから。
テリー そうなんですよ。スタジオには松方(弘樹)さんもいたじゃないですか。僕は最初、松方さんをどう使うかも悩んでたんです。そしたらそこに原田さんも来て、名前のある2人の役者さんをどう使ったらいいのかって。それで原田さんには学園ドラマをお願いすることにしたんですけど。
原田 「君たちはもう大丈夫だ」って言って、去っていくっていうね。
テリー あれは映画の「シェーン」とか「椿三十郎」のイメージがあったんです。あんな感じで若者を置き去りにしていくような青春ドラマができないかなって。あの頃、日本テレビも青春ドラマを放送していたし、素人を使った青春ドラマを作ってみたかったんですよ。
原田 あの頃、とにかく熱かったですよね。京都の比叡山に行った時、「ケーブルカーがあるから、あの屋根に上がろうよ」って。今だったら絶対許可出ないと思うけど、「いいですよ」って言ってくれて。ものを作りたいっていう情熱は今もあるけど、あの頃はものすごくあった。
テリー 原田さんに対する世間のイメージも、「元気が出るテレビ」でかなり変わりましたよね。
原田 あの頃の役者はインタビューを受けてもしゃべらないのが当たり前だったからね。(原田)芳雄でも中村敦夫さんでも、楽屋ではものすごいおしゃべりなのにインタビューになると、急に寡黙になる。
テリー 高倉健さんみたいなね。
原田 そうね。だから役者が普通にしゃべるようになったのは僕と兵ちゃん(石坂浩二)が走りじゃないですかね。でも、僕はもともとおもしろいことが好きだったから、ありがたかったですけどね。