11月8日、歌手・島倉千代子(享年75)が肝臓ガンで死去した。島倉といえば、演歌の王道を歩むように、その生き様は苦労の連続だった。中でも、莫大な借金返済で味わった地獄は理不尽極まりなかったようで──。
島倉は、男を信じて手形の保証人となったせいで莫大な借金を背負わされた。90年には完済したと報じられたが、借金問題は彼女を悩ませ続けたものだ。
05年に出版された著書「島倉家 これが私の遺言」(文芸社)でも借金について触れているが、当時の出版記念会見を取材した芸能記者が語る。
「島倉は目に涙を浮かべて、『法律が許してくれるならばこの手で刺したい』と、名前こそ明かしませんでしたが、借金を自分に背負わせた相手に対する恨み節を口にしました。すぐにベテラン記者からは、細木数子(75)の名が指摘されていた。一方、著書では細木の“ほ”の字も出てきませんでしたが、それは細木を恐れていたからでは‥‥」
島倉と細木の関係は、77年に始まる。総額16億円と言われる負債を抱えた島倉の後見人に細木の内縁の夫がなったのである。
当時を知る、歌謡界のOBが明かす。
「ヤクザが大勢、取り立てに来た恐ろしい現場を盾になって裁いたのが細木の旦那なんだ。その後、細木には利用されたけど、当時の島倉は『細木のママ』って甘えてもいたよ」
島倉の借金の額は、報道によって違うが、06年に出版された、溝口敦氏の著作「細木数子 魔女の履歴書」(講談社)にはこう記されている。
〈(前略)細木自身は島倉の負債額について、二億四〇〇〇万円、四億三〇〇〇万円、一六億円、一三億円、十二億円と、そのときどきで言い分を変えている。(中略)島倉に聞こうにも、彼女は細木のロボット同然で、負債額がいくらか把握していない〉
つまり、島倉は一時期、ヤクザの脅威から守ってくれた細木サイドの言いなりになってしまったというのだ。同書によれば、島倉の興行権も握った細木は、77年3月に「ミュージックオフィス」という芸能プロを立ち上げ、3年間、すでに返し終わっているかもしれない借金のため、島倉を馬車馬のごとく働かせたそうである。
「当時の島倉は自宅でヘビを飼っていて、巡業にも連れて出ていた。どんな心持ちだったのか‥‥。細木はその後、島倉の興行権をレコード会社の日本コロムビアに渡して、“トレードマネー”として2億円もしっかり取ったって話だね。島倉はその後、細木らとの関係を知る人間を避けたがるようになったな‥‥」(前出・歌謡界OB)
それでも島倉はへこたれず、離婚や乳ガンといった苦難も克服してきたのだ。
「仕事には妥協がなく厳しい人だった。歌手仲間とプライベートで交流を持つことは少なく、あくまで歌手・島倉千代子を演じ、食事に行っても仕事の話しかしなかったといいます」(前出・芸能記者)
晩年は弱みを見せないようにしていたかのようだ。
11月14日、大ヒット曲「人生いろいろ」で島倉は見送られた。合掌。