早朝、東京都新宿区の路上で発見され、搬送先の病院で死亡が確認される。「圭子の夢は夜ひらく」や「命預けます」などの大ヒットで一世を風靡した藤圭子の死はあまりにも衝撃的だった。そんな彼女の壮絶な人生を、藤の素顔を間近で見た経験も交え、綿密な取材で描いた「悲しき歌姫」(イーストプレス)を、去る10月27日に上梓した作家の大下英治氏が振り返る。
「地獄に真っ赤な花が咲くっていう言葉があるけど、藤圭子の存在はまさにそれだった。修羅、闇の中に咲く一輪の花だった。訃報を知った時、驚きはしたけれど、自殺については、意外ではなかった。最後にマスコミに出た時に、5年で5億円使ったとか、尋常じゃない額のギャンブルをしている話があったでしょう。精神のバランスが取れにくくなっているなっていう感じがした。だから、その果てにみずから命を絶つ、という選択があってもおかしくはない気がする」
そう話す大下氏によれば、藤は、娘の宇多田ヒカルを売り出す前に、自身の再起を願っていたという。
「1996年頃だった。新宿・歌舞伎町の台湾料理屋で宇多田照實さんと藤圭子と彼女を世に出した石坂まさをさんと、4人で会ったんだ。2時間ぐらいだったな。その時、デモテープを聴かされたけど、私は魅力を感じなかった。私は怨み歌の藤圭子が好きですから、そういうものではなかったから。本人は、演歌から転換したかったんだと思うけど、私は力を感じなかった。中途半端な歌謡曲って感じで。石坂さんも乗らなかった。ヒカルちゃんについては『この子はアメリカで歌の勉強をしているけれど、絶対にデビューするから』と自信満々に自慢していたけど、結局は石坂さんに自分を売り込みに来たんだよ」
それから1年半後、宇多田ヒカルは鮮烈なデビューを果たした。
「藤は自分で育てたヒカルちゃんがデビューし、成功してうれしかったと思う。でもそのあとは、あれほど愛していた母・澄子さんと喧嘩別れし、夫とも切れ、最後には娘とも離れた。そうするとあと、彼女に何がある? 歌手としては再起できないし、その寂しさを紛らわすために、ギャンブルに走ったのではないかな。孤独の中で追い詰められていって、本当の意味での闇だけが彼女の人生に残された。だからこれ以上、生きていくのが切なかったんだろう。生きていくことに夢がなくなってしまったんだろうね。ヒカルちゃんと早く和解していれば、死ななかったと思う」
そして、こう結んだ。
「藤圭子を失った悲しみを祈りに変えるような、そんな成長をヒカルちゃんに期待しています」