ハワイでカラオケ教室を成功させ、現地で有名な日本人の1人に挙げられるのが関口愛子である。62年には「トリオこいさんず」の一員として紅白にも出場したが、引退後の藤圭子とも親交を持った。
「引退してハワイにしばらく滞在していたのね。当時の私と洋服のサイズが同じだったから、何着かプレゼントもしたわ。彼女は英語の教室にも熱心に通っていたわね」
関口は、圭子が「高所恐怖症」だったことを記憶している。そのため、転落死という事実がすぐには信じられなかった。
もう1人、ハワイ在住のジャーナリスト・マックス岩崎も圭子と親しかった。
「日本からミッキー安川が来て彼女を食事に誘って、それですぐ近くに住んでいた俺に『一緒についてきて』って言われたのが最初。ミッキーは彼女に『この男のために芸能界を辞めたのか?』って聞いてたけど、そんな関係じゃない」
印象に残るのは、圭子が頻繁に電話を借りにきたこと。そして現在の体重を聞いたら「36キロ」と即答したこと。
「どうして引退したのか、俺は一切、聞かなかったからつきあいやすかったんじゃないかな。彼女がハワイからロスを経てニューヨークに行った後は、まったく連絡は取っていなかったけどね」
引退から2年後、圭子は日本に戻り、カムバックしたいと言い出した。最初に相談された榎本は、しかし、待ち合わせた喫茶店で申し出をきっぱりと断る。
「79年の引退の際、当時の事務所とRCAレコードが協力して“花道”を作った。それが2年後には復帰というのは、レコード会社が一番やってはいけないこと。純ぺー(圭子の愛称)にはそう伝えたよ」
古巣を断られた圭子は、酒井政利のプロデュースでCBS・ソニーから再デビューする。名前を「藤圭似子」と改名したが、再起を賭けた「螢火」(81年10月)は100位内にチャートインせず、復帰の会見でもレポーター陣から厳しい声が飛んだ。
酒井は、今も大きな後悔が残っていると言う。
「当時の新しい事務所と彼女にトラブルが生じて、告訴にまで発展しました。とてもじゃないがキャンペーンを引き受ける余裕もなく、失敗は目に見えていた」
以降の圭子はレコード会社を転々としながら、細々と歌手活動にしがみつく。全盛時よりはるかに安い地方営業も引き受けたのは、夫と娘との生活を支えていたからである。
榎本は、あれだけ歌手としてのプライドにこだわっていた藤圭子の変貌に驚きを隠せなかった。
「石坂さんと離れたのも、紅白に5度も出場したトップ歌手の気持ちをフォローできなかったことが原因。売れなくて世間の冷たい風当たりに耐えきれず海外にも行ったけど、またその場所に戻ってきたんだから」
そして、あの日の石坂まさをが乗り移ったように、娘を「この子は凄い」と売り歩く日々が始まった。