05年2月に行われた世界ジュニア選手権でも、2人の優劣は変わらず、浅田が179.24点をマーク。158.93のキム・ヨナと大差をつけた。この活躍で、浅田はIMG日本と正式にマネジメント契約を結ぶ。民放のスポーツ局記者が解説する。
「浅田側はCMなどのスポンサー探しなど、側面から支援を受けられるようになりました。森永製菓が専属のトレーナーと栄養士を帯同させていますが、これもIMGの手配でした」
強力なサポートを得た浅田は05-06シーズン、キム・ヨナより先にシニアの舞台に挑み、いきなりGPファイナルで優勝を飾る。
一方のキム・ヨナも、浅田が抜けたジュニアクラスにおいて圧倒的な存在感を見せつけ、JGPグランプリを自己新記録で完勝する。
初対決で浅田のアクセルを目の当たりにして白旗を上げ、同じ舞台に立つことだけを喜んでいたキム・ヨナだが、前年に浅田の記録した179.24点に、あと5点ほどにまで迫っていた。
年齢制限から出場のかなわなかったトリノ五輪をよそに、15歳の浅田とキム・ヨナは、再び世界ジュニア選手権で激突した。現地で観戦したスポーツライターの折山淑美氏が話す。
「ヨナの評判も聞いていましたから、トリノから帰国して、すぐにスロベニアに飛びました。2人の滑りの質の高さに、ジュニアでは突出しているなと思いました。初めて見るヨナは、感情の込め方も巧みで、『(2人は)次のバンクーバーの金銀だね』と関係者と話したことを覚えています」
しかし、この大会で浅田は初めてキム・ヨナに敗れてしまう。スポーツ紙デスクが、当時を振り返る。
「浅田はジャンプに精彩を欠いたことで準優勝、ヨナは自己最高の177点台で優勝します。初対決からわずか1年ほどで40点も伸ばす成長ぶりでした。2人は仲がよく、浅田の片言の英語にヨナが耳を傾けながら大会中もずっと会話をしていました。しかし、この成績でライバル心も芽生え始めたのです」
2人が五輪の舞台を夢に描くようになったのは、8歳の時。長野五輪のリンクで躍動したある選手の影響が強いという。
「90年に生まれ、95年からスケート靴を履き、98年の長野五輪を見た浅田は、優勝したタラ・リピンスキーに憧れ、ヨナは準優勝だったミシェル・クワンに引かれたそうです。今のスタイルに相通じるものを感じます」(前出・デスク)
2人の氷上の女神は、浅田とヨナにどのような影響を与えたのだろうか。