浅田が選んだ新コーチは、長野でキム・ヨナが憧れたミシェル・クワンを育てた人物だった。スポーツ誌編集者が語る。
「クワンを育てたラファエル・アルトゥニアンはジャンプ指導に定評があります。浅田陣営では、彼女の体の成長を考え、確実にジャンプのレベルを上げる意図が見て取れました」
一方、キム・ヨナ側は、現役時代、浅田の代名詞であるアクセルを飛ぶことで定評のあったブライアン・オーサーをコーチに迎えた。
「“ミスタートリプルアクセル”と呼ばれる人物で、ソチ五輪で金メダルを狙う羽生結弦のコーチをしています。ヨナの代名詞・トリプルトリプルのコンビネーションは高得点を狙いやすい技です。しかし、当時はLz〈ルッツトゥーループ〉とTでなく難易度の低いF〈フリップ〉とTの組合せでした。オーサーは戦略家としても知られ、ヨナの体の成長に合わせながら、勝てるスタイルの基礎を作り上げたのです」(前出・編集者)
2人が新たなコーチをつけた理由を折山氏はこう解説する。
「新しい人に教えてもらい、新しい刺激を受け、また1つステップアップするというケースはフィギュア界にはよくあります」
しかし、新拠点とコーチの選択は浅田に暗い影を投げかけた。当時、フィギュア担当だったスポーツ紙記者が明かす。
「浅田は、『最初は不安だったけど、全然大丈夫です』と笑っていましたが、練習場が山火事に見舞われたり、英語が苦手にもかかわらず人口1万人ほどの片田舎での生活にかなり疲れ、ホームシックにかかったようです。07-08シーズン途中の12月、わずか1年半で浅田は練習拠点を国内に戻します」
その影響もあってか、キム・ヨナとの対決となった06年、07年のGPファイナルを2年連続で敗れてしまう。
ただ、08年世界選手権で、浅田は念願の初優勝を飾り、アメリカ撤退の不安は払拭したかに見えた。しかし、試合内容は、SP、FSともに2位。合計点数も185点台と平凡な記録に終わったのだ。
「翌年5月にお膝元の中京大にフィギュア専用リンクが完成し、浅田はそこを拠点に活動することになりました。表向きには、アルトゥニアンが定期的に来日し、練習を見ることになったという説明でした。しかし、08年2月の四大陸選手権(韓国開催)に向けての指導予定がありながら、彼の来日は実現せず、結局は師弟関係に終止符を打ちました」(スポーツ局記者)
この米国からの撤退騒動とコーチ問題に揺れる中、もう1つ、スポーツマスコミが詳しく触れないニュースがあった。「妹・真央のために」という理由で、姉の舞が静かにフィギュア界を去っていたのだ。