中森明菜が東京・六本木5丁目にある近藤真彦の自宅マンションで自死未遂騒動を起こしたのは、1989年7月11日のこと。この日、近藤は大阪での仕事を終え、午後3時55分、羽田空港に到着。麻布警察署によれば、近藤が声をかけると、明菜は「ごめんなさい」を繰り返し、泣きじゃくるばかりだったという。
彼女が左肘にナイフを当てた場所は、バスルーム。傷口からあふれ出る血を見つめながら、ただひたすら「愛する男性」の帰りを待ち続ける明菜の姿に、以前、取材でお世話になった母・千恵子さんから聞いたこんな話を思い出した。
「明菜はね、デビュー前にすでに『森アスナ』という芸名が決まっていたのね。でも、親が付けてくれた名前を変えるのは絶対に嫌だ、と社長に直談判したんだって。まだ、16歳かそこらの小娘なのにね(笑)。昔から一度こうと思ったら曲げない。それを貫く一途なところがあった。そんな子でしたよ、明菜は‥‥」
その一途さゆえに起こってしまった悲劇だったのだろうか。
2人は歌番組での共演をきっかけに、交際をスタートさせた。やがて明菜が麻布十番のマンションを出て、近藤の部屋で半同棲生活を始めたという。だが幸せな日々は、長くは続かなかった。
順調な仕事とは裏腹に、プライベートでは「家族との確執」や「事務所からの独立問題」、そして「近藤と松田聖子とのニューヨーク密会騒動」等々、多くのトラブルやスキャンダルに見舞われ、明菜は孤独に苛まれた。心はまさに「難破船」のように彷徨っていたのか。
私が明菜の入院する東京・西新橋の慈恵医大病院に直行したのは、自死未遂の日の夕方。玄関前で報道陣の取材に応じた所属事務所「研音」の花見赫社長(当時)は、こう語っている。
「この日、明菜は免許の書き換えに行き、午後3時半頃、帰宅したという報告を受けましたが、誕生日(7月13日)を前に上機嫌で、とても(自死未遂するとは)考えられないと‥‥」
そんな明菜が事件以来173日ぶりに公の席に姿を現したのは、平成元年の大晦日だった。この日、会見が行われた新高輪プリンスホテルに集まった報道陣は200人以上。しかもテレビ朝日の「年忘れ生テレビスペシャル」という特番の真っただ中にライブ中継されるとあって、それこそ「裏番組」の「NHK紅白歌合戦」も吹っ飛ぶような大騒ぎになったものだ。
だが、まるで誰かに着せられたかのようなグレーのジャケット姿で現れた明菜は「本当にごめんなさい。私がバカだったんです」という言葉を繰り返した。そして「(結婚する気は)まったくない」ときっぱり言い切る近藤の横で、震える声でこう語った。
「いちばん信頼できる人だから‥‥いちばん最初に見つけてほしかった」
会見は20分ほどで終了したが、2人の後ろには金屏風が置かれていた。この金屏風については、現在もさまざまな憶測が流れており、真相は藪の中だ。だがその後の明菜を見ると、この会見が「難破船」をさらに深い海底へと沈みこませていくことになったことだけは間違いない。
山川敦司(やまかわ・あつし):1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。