中学を卒業後、バスガイドとして地元・熊本のバス会社に就職した八代亜紀。だが、歌を諦めきれない。そこで熊本市内のクラブで専属歌手になったが、たちまち両親の知るところとなり、15歳で故郷を離れる。東京・銀座で、クラブ歌手として歌うようになった。
だが彼女には、どうしても父に認めてもらいたい、という思いがあった。「歌手になりたい!そのためならどんな苦労もいとわない」。意を決してそう告げる八代の言葉に黙って頷いた父・敬光さんは、以降、毎月かかさず2万円の仕送りを続けたといわれる。
そんな八代が「舟歌」「雨の慕情」などを立て続けにヒットさせ、演歌の世界に「八代亜紀あり」といわれるようになったのは、1980年代前半のことだ。
デビュー15年目の1985年、熊本から両親を呼び、同居するため、目黒に豪邸を建てた。部屋数は全部で15室。当時取材に行った私に、父親は「本当は家なんか建てるよりも早く嫁に行け、っていったんですけどね…」と目を細めていたものだ。
その敬光さんが急性心不全のため死去したのは、1991年2月15日のこと。朝9時半ごろ、妻のたみ子さんが1階にいた夫に声をかけたが、返事がない。見てみると、テレビの前で横たわる敬光さんは、既にコト切れていたという。まだ63歳だった。八代はこの日、たまたま仕事がオフで、前夜帰宅した際「お帰り!きつかねぇ!」といつものように熊本弁で優しく語りかけてくれた言葉が最後になったという。
翌16日。三重県・桑名の長島温泉には、必死に涙をこらえステージに立つ八代亜紀の姿があった。昔から「芸人は親の死に目に会えないもの」と言われるが、確かに亡くなる瞬間、そばにいることはできなかった。それでも、15日は丸一日、最愛の父に寄り添うことができた。父の隣で彼女はどんな思い出を語り明かしたのだろうか。
公演の途中、司会者から「プロというのはつらいものですね」と水を向けられた瞬間、堪えていたものが一気に噴き出した彼女に、会場のファンから「亜紀ちゃん、頑張って!」「負けるな!」という励ましの声が飛ぶ。涙ながらに、天国の父に届けとばかりに歌う八代。そんな姿がファンの胸を熱くした。
支えてくれた両親に恩返しするため懸命に働き、ようやく家を建てて熊本県八代市から両親を呼び寄せた。だが、彼女が父と過ごせたのは、わずかな時間だった。
「父に故郷を捨てさせ、友達からも遠ざけてしまったのではないでしょうか。寂しい思いをさせてしまったのではないでしょうか。私は親孝行だったでしょうか…」
公演終了後の会見で、彼女はこういって、寂しそうに目を伏せた。
山川敦司(やまかわ・あつし):1962年生まれ。テレビ制作会社を経て「女性自身」記者に。その後「週刊女性」「女性セブン」記者を経てフリーランスに。芸能、事件、皇室等、これまで8000以上の記者会見を取材した。「東方神起の涙」「ユノの流儀」(共にイースト・プレス)「幸せのきずな」(リーブル出版)ほか、著書多数。