江戸幕府前期の最大の事件といえば、軍学者・由比正雪が起こした慶安の変、いわゆる由比正雪の乱である。
正雪という人物が慶安四年(1651年)、3代将軍徳川家光の死を契機に、幕政批判と浪人の救済を掲げて、各地で挙兵。幕府転覆を謀ろうとした。だが決起の寸前、一味の奥村八左衛門の密告により発覚し、計画は未然に防がれた。
正雪の右腕とされる人物が、宝蔵院流槍術家・丸橋忠弥である。宝蔵院流槍術は、奈良の興福寺宝蔵院主胤栄が創始した、十文字槍を使った槍術である。当時、お茶の水で道場を開いていた忠弥の腕前は、当代随一の誉れが高かった。
この忠弥の出自に関しては、面白い話が伝わっている。
大阪の陣で豊臣方に付き、処刑された四国の大大名・長宗我部盛親の庶子・盛澄だったというのだ。丸橋は母方の姓だという。忠弥は現在も演じられている、歌舞伎の演目「樟紀流花見幕張(くすのきりゅうはなみのまくはり)」、通称「慶安太平記」でも、長宗我部盛澄として登場している。
それを証明する文献は残ってはいない。だが、忠弥が長宗我部盛親の遺児だとすれば、徳川家に恨みを抱いて、大流行だった槍術道場の道場主の座を捨て、幕府転覆の中心メンバーとなっても不思議ではない。
忠弥は密告により、町奉行所に寝込みを襲われて死んだ。それでも江戸幕府の怒りはすさまじく、当時開設されたばかりの鈴ヶ森の刑場で磔刑にされた。その後、あまたの罪人が鈴ヶ森刑場で処刑されたが、忠弥はその第1号となった。
忠弥の墓所は、現在の東京都豊島区の金乗寺、そして品川区の妙蓮寺(写真)の2カ所にあるが、妙蓮寺に伝わる話が興味深い。鈴ヶ森で処刑されたはずの忠弥の首がなぜか門前に転がっており、見つけた妙蓮寺の僧が弔い、首塚を建てたという。
当時、処刑された罪人を手厚く葬るのは御法度で、忠弥の首が転がっていたというのは、単なる口実だろう。
四国の覇者だった有力大名の末裔だったとすれば、禁を破ってもその霊を慰める元長宗我部家の家来たちがいても、なんら不思議ではない。
(道嶋慶)