薩摩藩と長州藩が江戸末期の討幕運動の中心となったことは、歴史的事実である。
この薩摩藩の祖となった島津忠久が、鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝のご落胤(らくいん)、つまり隠し子だったという説がある。島津忠久が鎌倉幕府の有力御家人として頼朝、頼家、実朝の3人の将軍に仕えたことは、鎌倉時代の半公式文書「吾妻鏡」などでも明らかだ。
だが、その出自、生年に関しては諸説ある。母は頼朝の乳母・比企尼の長女である丹後内侍(丹後局)であることは間違いない。彼女は一時、京都で惟宗広言と婚姻関係を結んでいた。
そのため父は惟宗広言とされているが、どうも養父だったらしい。丹後局は惟宗広言と離婚後、関東に下り、鎌倉幕府の御家人・安達盛長と再婚。安達景盛を産んだと「吾妻鏡」には記載されている。歴史上、丹後局の実子はこの安達景盛しかいないことになっている。
だが、安達景盛よりも前に別の男子を出産していたという話は根強くある。父親は頼朝だ。頼朝と丹後局は不貞関係だった。彼女の妊娠を知った頼朝の正妻・北条政子は激怒。配下の畠山重忠に殺害を命じたという。
その際、彼女は身代わりを立てて、最終的には摂津国、今の大阪まで逃げた。そして住吉大社の境内で無事に男子を出産。それが島津忠久だったというのだ。
また、鎌倉を追われた丹後局は大阪ではなく、上矢部(現在の横浜市戸塚)で男子を出産したとの伝承もある。丹後局の墓所は鹿児島市の花尾神社にあるが、上矢部にも墓所と伝わる塚があり、現在は丹後局供養塔(写真)が立っている。
ただならぬ関係でなければ、後に頼朝が丹後局に見せた異常とも言える気配りは理解できない。
彼女が文治2年(1186年)に、病に倒れたことがあった。その際、頼朝はわずか2人の供を従えて見舞っている。さらに、病気平癒の願掛けまで行っている。将軍がお忍びで部下の妻の元を訪れるのは、どう考えても普通ではない。実際、頼朝が他の御家人の妻を見舞った例は聞いたことがない。
鎌倉時代の資料、文書には、頼朝の子を丹後局が産んだという記載はない。だが、為政者によって事実が封じ込められることはある。「島津忠久=頼朝のご落胤」が眉唾だった、という証明にはならないのだ。
(道嶋慶)