あの時代劇のスーパーヒーロー、柳生十兵衛三厳はなんと酒でやらかし、12年にも及ぶ「出勤停止」処分を受けていた──。
江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の兵法指南を務め、後に柳生藩初代藩主となる柳生宗矩の長男・柳生十兵衛は、様々な映画や小説の主人公として親しまれている。
若い頃、剣術の稽古で父の木剣が目に当たり、片目を失明。眼帯をした「隻眼の剣豪」、そしれ剣一筋のストイック人間というイメージだ。
慶長12年(1607年)、大和国柳生庄で誕生した十兵衛は柳生新陰流の奥義を極め、諸説あるが3代将軍・家光の隠密として諸国を巡ったとされる(柳生家の江戸下屋敷は今の五反田にあった=写真)。だが、長い「出勤停止」時期があったことは、あまり知られてはいない。
元和五年(1619年)、13歳で徳川家光の小姓となった十兵衛は当初、剣術の稽古相手も務め、信頼されていた。ところが寛永三年(1626年)、20歳の時に、家光に激怒されて蟄居、謹慎を命じられる。一時、小田原にお預けとなり、行動制限の身となったのだ。
十兵衛は自著で「さることありて、若(家光)の御前をしりぞきて」と述べているだけで、その詳細までは明らかになっていない。
ただ、親兄弟、親類縁者に累は及んではいないが、10年以上も「再出勤」が許されていないことを考えると、個人的な大きなしくじりと推測される。
十兵衛は酒に飲まれる性格、酒乱だった。それが災いして、どうも酒に酔って家光と稽古をし、メッタ打ちにしたというのが真相らしい。
サラリーマンの世界でも「この宴会は無礼講」と上司に言われたことを真に受けて大暴れし、後に「飛ばされた」ケースはあとを絶たない。
事実、「再出勤」の際には、禅の師である沢庵和尚から「酒さえ飲まなければ、何の問題もない」と忠告されたとのエピソードもある。若い頃からストレスを酒で紛らわせ、酔った揚げ句に大暴れするタイプだったことは間違いない。
その後、十兵衛は柳生藩藩主となったが、慶安三年3月21日(1650年4月21日)、鷹狩りの最中に、44歳で急死した。死因は現在も明らかになっていない。
ただ、脳卒中や狭心症による突然死だったという説が濃厚だ。若い頃から大酒飲みだったため、体が蝕まれていたのかもしれない。
(道嶋慶)