生まれながらの将軍と言われた、徳川幕府第3代将軍・家光と「裸の付き合い」をしていた大名がいる。讃岐高松藩の初代藩主・松平頼重だ(写真=高松藩下屋敷跡地は東京・白金台の自然教育園になっている)。
若い頃は男色家だったされる家光だが、頼重との付き合いは、それとは違う。今で言うところのサウナ好き、いわゆる「サウナー」仲間だった。
家光の風呂好きは有名だが、当時は現代のように湯船に浸かるものではなく、蒸し風呂=つまりサウナに近いもの、とされている。家光は湯殿へ頼重を呼び、世間話に花を咲かせていたという。
2人はいとこ同士だった。頼重は徳川御三家・水戸藩出身で、有名な水戸光圀、つまり水戸黄門様の同母兄だった。
だが、母である高瀬局(谷久子)が懐妊した当時、将軍家や他の御三家である尾張藩や紀伊家にはお世継ぎとなる嫡男がいなかったことが災いした。
気を使った頼重の父、家康の末っ子である頼房は、高瀬局に堕胎を命じたという。そのため、頼重は頼房にも知れされず、元和8年(1622年)に極秘出産された。父・頼房と対面を許されたのは寛永14年(1637年)で、すでに世継ぎは同母弟の光圀に決定していた。
同15年(1638年)には将軍・家光とお目通りを果たしたが、光圀の6歳上の兄という扱いだった。その後は、常陸下館5万石の藩主となり、同19年(1642年)、高松12万石に転封されて初代藩主となったのである。
頼重と家光の境遇には、似ている部分がある。頼重は父に誕生を歓迎されず、家光は家光で実母の崇源院に嫌われ、実弟・駿河大納言忠長に将軍の座を奪われそうになった。肉親の情愛に飢えていた両者が日増しに絆を深めていったのも、無理はない。
18歳年上のいとこ・家光に、頼重も甘えていたのだろう。一説には、風呂場で頼重が、石高で水戸藩と同格となる大名の座を懇願。家光もそれを許し、指切りまでしたと伝わっている。
実際は12万石からの加増はなかった。だが、将軍家の名代として後水尾上皇に拝謁するなど、裸の付き合いが奏功し、親藩、譜代大名の嫡男並みの扱いを受けるようになったのである。
(道嶋慶)